「長老には言わないでくれ」 かつて青年が言った事を、少女は未だに憶えている。 愛の逢瀬だったわけではない。村の伝統だった春の祭りに、村の象徴たるサクラの大樹を囲む輪に入らなかった彼に興味を持って、少女から話しかけた、二年ほど前の話だ。 「……君の家に勝手に入って、あの本を盗んだのは悪いと思ってる。けれどどうしても、僕は根拠になるものが欲しかったんだ。あの馬鹿でかい樹が、桜じゃないっていう根拠が」 それで、根拠は見つかったの、と少女は言った。 「……絶対そうじゃない、とは言い切れなかったよ。でも、外の世界の桜は、ここの樹みたいに赤々とした花びらは絶対につけない」 怖いんだ、と青年は言った。 「長老が公開している本の中に、桜の樹に関する小話があったんだ。『桜の樹がこんなに美しいのは、樹の下に死体が埋まっているからだ』って」 反射的に、少女は口元を押さえた。叫びそうになるほどの驚きを噛み下して、その小話がこの村では事実であることを再確認した。 確かに、あの巨木を信仰するこの村は、死者を樹の下に埋葬しているのだ。 「できることなら、あの気味の悪い樹を切り倒してやりたい。でも、道具も何もあったものじゃないこの村じゃ、無理だ。外に逃げるにも、ここで使われている言葉と、外で本当に使われている言葉が違ったら、僕らはどうなる? そもそも、時々来る行商人の馬車に紛れたところで、きっと途中で気付かれて蹴りだされれば、右も左もわからないうちに死ぬだけなんだ」 だから、この村で生きていくことにはしてる、と青年は締めくくった。 「君にこういうことを話したせいで、僕は殺されるかもしれないね」 しばらく間をおいて、彼はぽつりと言った。 「君は長老の孫だ。君はあくまで村の人間として、この祭りでサクラを讃える舞をしなくちゃいけない。そんな人が、サクラに対して否定的なことを吹き込まれた――なんて長老に知れたら、間違いなく僕は殺されるだろう」 少女は、悲しげに青年の顔を見た。炎に照らされている彼の顔は、諦めが混じっていて、やはり悲しげだった。 その頃からだったと思う。 彼の姿を目で追うようになって、彼の考えをもっと知りたいと思うようになったのは。 そして今年も、ハルと呼ばれる季節がやってくる。 今年のサクラは、例年に負けず劣らず赤々とした花弁を枝の先々でふるわせている。鬱蒼と茂る森に囲まれたこの村ではそうそうと日の光の色が分かるわけでもないけれど、少女には六色にも七色にも分かれた光の筋が見えていた。 弧は描かないけれど、虹のように色の分かれた光の筋。 彼が持っていった本に描かれた虹は、いつだって祝福の暗示だった。 (今年の、この祭りが終わったら――) 青年に思いの丈をぶつけてみようと、少女は決心した。 恐れることはない。 だって、自然の神様が背中を押してくれているのだから。 祭りは一月続く。少女が舞うのは祭りの終わりだけで、いわゆる奉納の舞になる。サクラに対して、またこの一年で亡くなられサクラの下に埋葬された人々の鎮魂も兼ねた、儀礼的な剣の舞いは、彼女が幼い頃から、祖父に父に母に仕込まれ続けたこの村の伝統だ。 その祭りも、これで今年は幕引きだ。 風は強く、森に囲まれてただでさえ薄暗い夜の村は、心なしかさらに暗い。くべられた薪は煌々とサクラを照らし、祖父――長老が恍惚とした表情で酒の入った盃を呷った。 呷った盃を机に叩きつけるように下ろし、長老が大きく息を吸い込んだ。 「ここに、祭りの幕を下ろすための舞をサクラ様に捧ぐ!」 年々変わることのない叫びに、少女は伏せていた顔を上げる。 舞のための儀礼剣を、両手で天を差すように振り上げる。 無心に、集中。 風がいっそう強くなり、サクラの赤い花弁が少女の周りを吹き抜ける。 強烈な閃光の後、空を引き裂く轟音がひとつ、遠くで落ちた。 少女が剣を振り下ろし、舞う。風が強くてもその軸はぶれず、むしろ風が避けて通っているかのようだ。その小柄な体を、茂る森の葉を抜けた雨粒が連打した。 動きは、鋭く、そして優美に。母の教えに根付いた舞は、雨粒すら斬り、花弁を断ち割る。 この剣には、何か魔物でも潜んでいるのだろうか? 少女の頭の中に一瞬浮かんだ考えは、すぐに彼女自身によって流される。 村を照らしていた明かりの炎が消える。 絶句する青年の顔が、一瞬だけ視界に入った気がした。 少女が剣を勢いよく振り上げる。瞬間、強烈な風雨が彼女の体自身を巻き上げようと吹きつけた。こらえきれず、少女の手から剣が弾き出される。 数回転して、剣はサクラの樹に突き立ち――直後、再び閃光が村人全員の視界を支配する。 すぐ、轟音は頭上に落ちた。 赤か青か、一瞬では判断しづらい色の閃光がサクラから湧き出たように少女は感じた。 長老が意味を成さない叫びを上げる。その声で、サクラが壊れてしまったんだろうと彼女は思った。 再び、強風。今度こそ、少女はサクラの樹に叩きつけられた。 サクラから――村の真下に張り巡らされた根を伝ってだろう――青い炎が噴き出す。雨に打たれても、勢いを殺されるどころかさらに獰猛に燃え盛る、この世のものとも思えない幻想的な炎が、村全体を包み込み―― 一度、彼女はその意識を手放した。 視界がなくなる直前に、少女は狂ったように笑う青年の姿を見た気がした。 そして、嵐と呼ばれるらしい何かが、村を去っていった。 少女の意識が回復したとき、村はすでに村と呼べるほどのものではなくなっていた。 体を起こし、彼女は改めて稲妻によって裂かれた巨木に背中を預ける。頭上を見やると、本来は森に覆われ空なんてまともに見えないはずの場所にいながら、青々とした空がくっきりと見えている。腕をつねっても痛みがあったから、彼女は自分がまだ生きていて、かつこの光景が、完膚なきまでに破壊されたこの場所が事実だということに、彼女はまず涙した。 空を見上げると、からりと晴れた空に、光の弧が浮かんでいる。 虹。 絵としては六色、あるいは七色の帯で描かれるそれを見たとたん、彼女から表情が消えた。 幼い頃に絵本で見た、幸せな結末を迎えて現れた虹は、少女の心を確かに満たしていた。そして幸せの象徴だと信じていたのに。 虹は、全てが終わってから現れる。幸せな結末の次でも、嵐の過ぎ去った後でもそれは変わらない。何かが終わってしまったときに、その節目として現れる。 ――今ここに現れて、虹は何をしたいのだろう? 幼い頃ならまだ前向きになれたかもしれないけれど、今更になって、何もかもがなくなったこの村に、祝福されるものがあるだろうか? もうここには、なにもない。 家も、サクラの巨木も、少女以外の人間も、飼っていた動物も、畑も、外の世界を知らせる書物も、絵も、文化も、祖父らが大切にしてきた信仰も、そして彼女が恋した、あの巨木を恐れた青年も。 何もかも、失われてしまった。 どさり、ともざくり、ともつかない中途半端な音が少女の隣に起きた。見ると、裂かれた巨木から抜け落ちた、装飾が剥げ焦げた少女の剣が、彼女のかたわらに突き立っている。 空には雲ひとつなく、虹だけがひとり焼け落ちた村を見下ろす。 少女ははらはらと涙し、表情のない虹だけが、それを見ていた。 |