「掛け算ね」
 彼女は迷うことなくそう答えた。
 どうして即答したのか聞いたところ、「それ以外に考えられない」という至極真っ当な答えをいただいた。
「でも、式の上では足し算の形式に見えるだろ? ……左右を結んでるのが等号じゃないけど」
 卓上に広げたノートに、僕はボールペンでその式を書き殴った。やっぱり、乗算記号なんてどこにも見当たらない。もっとも、+をナナメに見たらそうなる、なんて事を彼女が言っているわけじゃないのは、今までのつきあいから何となく察した。
「まあ、そもそも数学的な現象じゃないから四則演算で語るのもナンセンスな話だけど――」
 彼女が、殴り書きされた式を指差した。
 2H2+O2→2H2O。
 中学生の頃になら、誰だって理科の実験でやっただろう体験の式だ。
「確かに、式の上では足し算だけど、ただくっついてるだけじゃないから、足し算じゃないと思うな、私は。引き算なわけがないし、割り算なんて有り得ない。ほら、残るのは掛け算だけ」
 いつも通り、彼女の答え方はシャープだった。
 でもそれは、余らないような反応式だからそう思うだけなんじゃないか、と反論してみた。暗記したいくつかの式の中から、ぱっと思い出せたものを書き出してみる。
 式の左右で、残るものが入れ替わっている。化学的には弱酸遊離――強い酸が弱い酸を追い出して塩基とくっつく、実にジャイアニズムあふれる現象だ。
「それも掛け算ね」
 彼女はまた即答した。
「何て言うか……略奪愛?」
 続けざまに放たれた言葉で、僕は確実に呆けた顔をしていただろう。
「それは冗談としても、強者が全てを得て弱者が追い出されるってのは実に現実的で夢のない反応よね。ちょっとしたことでなびいてしまう人間が相手だって自分で証明するわけだし。色々と残念だわ……」
 彼女が熱っぽい息を吐く。
 これはまずいんじゃないか、と僕は思ったが、既に話を切り上げるタイミングは失っていたようだった。
 それに、と言葉を繋いだ彼女と目が合う。蛇に睨まれたカエルの気持ち、というのはこう言うものだろうか。
「酵素反応なんて素敵じゃない? 色々と解釈できるわ。『鍵と鍵穴』って例えがあるくらい、お互いのパートナーはお互いしかいないなんてロマンチックなものもあれば、『ただ触媒として機能するだけ』で、好きな子の恋路を応援するしかできない、なんてパターンも考えられるし。それに、アミラーゼなんてデンプン君が大好きで大好きでたまらないから思わずバラバラにするまで愛してしまうの。これのどこに昂奮しないの?」
 話が飛躍し始めた。もう僕の頭では追いつけないことを自覚しながら、圧倒され反射的に相槌を打つ。
 どこで地雷を踏んだのだろう。
「酵素とはあんまり関係ないけど、温度条件で反応が変わるものなんかも面白い解釈の余地があるわね。ほら、中学生の頃にヨウ素デンプン反応ってやらなかったかしら?」
 確か、デンプンにヨウ素溶液を加えると青紫色になる、という反応だっただろうか。デンプンではなく、米粒をすりつぶしたり溶かしたりしたものを使っていたっけ。
 それとこの酷い流れの話に何か関係があるのかと疑ってみると、一つ思い出した話があった。確かこの反応は、熱を加えると色が抜ける。
 思わずそれを思い出し思い出し口に出してしまうと、彼女は目を輝かせた。言わなければよかったと気付いた頃には、彼女の生き生きとした目の光が地球を三十周はしていただろう。
「そうよ。しっかり混ざり合って色まで変えるのに、熱を加えられるとヨウ素が外れて色が抜けるのよ。周りに茶々を入れられそうな所では他人の振りをするくせに、いざ二人きりになるとべったり……という考え方ができて面白いよ、化学反応」
 さすがに僕が唖然としているのに何か感じたのか、彼女の声が控えめになった。
 いくつも彼女に式を呈示しておいて言うのも何だが、本当にお互い理系の人間なのだろうか。少なくとも僕にとって化学反応は研究すべき対象であり打倒すべき相手であって、言葉で遊ぶような真似はとてもできない。だけど彼女は、そういったしがらみ無しに、事象としての化学反応をあらゆる言葉で楽しんでいるのだろう。
 事実、僕が自分でそういった楽しみ方をしないだけであって、彼女のその話は面白いと感じるのだ。
 定期的に時間を作っては、下らない話に、あるいはどうしようもない話に花を咲かせるだけで満足できると言ってしまうと、欲がないねと返されるのだろうか。
 波長は合うのだろう。位相も同じだろう。
 さて色めく話と申し込むとして、どういう言い方をしろというのか。彼女の流儀に合わせたら、奇をてらうどころの言い回しでは済まなくなりそうで、シンプルでなくなってしまった自分の脳味噌が恨めしい。
 脳味噌の中にしまい込んだ想像曰く。
 ――酵素的に付き合ってみませんか。