―後顧― 「やっと来たのね」 藤沢天音は、ようやく待ち人がたどり着いたのを見てため息をついた。 あの手この手を尽くして宏紀の連絡先を彼女の通う高校の同級生から聞き出し、彼を「話があるから」と市役所近くの喫茶店に呼び出す約束を取り付けるのに成功したのが三日前。大花火大会から、今日で一週間が経つ。 偶然にも今日は八月九日。 日本では全国的に長崎原爆記念日であり、ムーミンの日と世界的に定められ、忠犬ハチ公の像が再建された、いろいろと記念すべき、あるいは祈念すべきことの多い日だ。 だからと言って、彼が改めて記念することや祈念することなんてないだろう。 右肩をかばうような歩き方をする彼は、なぜか制服姿だった。 「遅かったわね。どうしたの?」 「模試の終了時間が遅れたんだよ」 宏紀の事情はあまり聞いていなかったが、学校側はこの暑い中、一年生にも試験を課していたらしい。 「それで、何の話があるんだ」 天音は席を立って会計を済ませると、精一杯の愛想笑いを浮かべた。それでも、ほとんど表情は変わっていなかったが。 「まず、場所を移しましょ」 「肩、もう大丈夫なの?」 「お前の行動が早かったおかげで助かった――と言いたいところだけど、貫通した部分が時々痛むくらいで、もうほとんど治っちまった」 オレの体、どうなってるんだろうな。宏紀は困惑を隠さない。 あの後、天音は宏紀の言いつけどおりにせず、決着がつき、負傷した三人のために救急車を呼び出した。真面目な隊員に「この三人が超能力を使ってお互い殺しあいました」――などと馬鹿正直に吹き込むわけにもいかず、無難に通り魔に襲われた設定をとっさに作って言いくるめた。 結果、ニュースでは大花火大会の影で通り魔事件が起きたという、当事者以外にしてみれば背筋が凍る報道がなされたわけだ。 もちろん、そんな通り魔は実在しない。敢えて言うなら、綾巳に憑いていたあの存在――《悪夢の塔の檻髪姫》が、築都を震わせていた少年少女誘拐の通り魔だった。けれど、それはもうこの世に存在するかも分からない。 結局、生死の縁を二人で二回渡っても、特に話題が沸くわけではない。天音はコミュニケーションが苦手だったし、宏紀は宏紀で話しづらい理由があるのだろう。 「ところで、藤沢。……どこで話をするつもりなんだ。話だけなら別にさっきの喫茶店でもよかっただろ」 残念ながら宏紀くん、その突っ込みを入れるのが十分は遅い。 内心でそう呟きながら、天音は平静を装って言う。 「着いたわ。……わたしの家だけど」 宏紀の体が完全に硬直する。 「付け加えれば、両親も――いえ、叔父も叔母も出払ってるわね」 つけてみた蛇足に対して、宏紀は深くため息をついた。 「落ち着いてるのね。こういう台詞を言ってあげたら男の子は緊張するか野獣になるかのどっちかだと聞いていたけど」 「藤沢。そうして欲しいんだったら、もっと棒読み口調と微動だにしない表情は改めとけ」 適応力の高い宏紀は、ほとんど動じなかった。 「お前が冗談でそういうこと言うとは思ってなかったけどな」 諦めたように、彼は首を振る。 「それじゃ、上がって」 脱力した彼を尻目に、天音は自分の部屋へと階段を上る。 ‡ 親がいないだの、わたしの家だのと、二回しか会ってない男にどういう気の回し方だ。 ――間違ってるだろう。 宏紀は緊張する以前の段階で脱力した。教えもしていない連絡先をどうやって聞き出したのかは興味があるが、あの私立校には宏紀の同級生も何人か進学している。そこからメールアドレスを聞き出すとなると、なかなか勇気のある行動だったとは思う。 けれど、それとこれとは話が別。 同い年の女の子の部屋に入ったことがあるわけではないけれど、案内された部屋は整頓されすぎていて殺風景だった。 かわいらしいものはなく、塵ひとつなく、娯楽になりそうなものも見当たらない。 ただひとつ、部屋の四隅に置かれた巨大なスピーカーが、十五、六歳の持ち物としてはあまりに浮きすぎていた。 「……このスピーカー、どうしたんだ」 夏なのに、エアコンのスイッチも入っていないのに体感温度が下がる。一度は忘れたくなった、名前の影響を思い出した。 「《ライアーズノート》に取り憑かれてから、今まで使ってた安物のコンポじゃ満足できなくなったの。iPodもウォークマンもダメ。だから、もっと音質のいいサラウンドスピーカーが使える環境を自分の部屋に作ったわ」 うつむいて、天音は続ける。 「音を楽しめない。今まで娯楽で聞いてたロックやポップスが耳障りになって、アンビエントに逃げた。最近はそれもダメになって、流してる曲はジョン・ケージの『四分三十三秒』な時だってある」 無音の空間で、彼女は訥々と語る。 「自分が抱え込んでしまったもののせいで、わたしたちは変わっていく。だけど、バランスの取り方だってある。わたしはそれが音質の追求だったし、きっと日阪くんはプログラミングを趣味に据えることでそうしたんだと思う」 宏紀は部屋を見回す。 女の子らしいらしくないは措くとして、スピーカーだけが異常に目立つ。でも、天音はこれでバランスを取れている。 「わたしたちは変わる。宏紀くんは、自分が抱え込んでしまったものに気付いてから、変わった?」 変わったこと。 「……今まで熱心に打ち込んでた、シューティングゲームに触りたくなくなった」 隠す必要はないので、正直に言う。 気付いていないうちは幸せに遊んでいたが、いざ今回の事件が終わった途端、コントローラーを、スティックに触れることも怖くなった。 ――人類に挑戦してみようかな、と。 そういったコンセプトで作られたゲームに、自分のようなもう人を超えてしまったかもしれない得体の知れない何かが挑戦していいのか。 右肩が痛んでいても、左手でスティックを動かす練習はできる。けれど宏紀はゲーム機の電源を入れようとも思わなくなった。 人類に対して挑戦しているゲームに、自分が挑むのは卑怯だ。 「何か、見つけたほうがいいのか?」 天音の返答は、実にシンプルだった。 「さあ。自分で考えれば?」 「ところで、その……綾巳さん、だっけ。見舞いには行ったの?」 「……」 宏紀は何も言い返さない。何も、言い返せない。 三人まとめて通り魔に襲われた、という設定は社会的に受け入れられたらしく、そして綾巳は確かに一命を取り留めた。この時ばかりは、あの忌々しい化け物に感謝したぐらいだ。 けれど、自分が綾巳を殺そうとした事実は変わらない。 それに、綾巳が自分のしてしまったことに絶望して自暴自棄になれば、それはある意味で殺し損ねてしまった自分の責任になる気がして、怖かった。 一週間。綾巳が意識を取り戻してから、もう四日は経っている。面会謝絶の札も取り払われ、いつでも彼女には会いに行けるのだ。 行けるのに。 怖くて、宏紀は綾巳からの連絡も無視している。 会った瞬間に綾巳があの化け物にすり替わるかもしれないと考えるのが怖い。 一度は手にかけた相手にどの面さげて会えばいいのか分からないのが怖い。 変わってしまった自分が拒絶されそうで、怖い。 「行きなさい」 強い調子で、天音は言い切った。 「行きなさいよ。あの人が会いたいのはきっとあなたなんだから。怖がってる暇があったら行きなさいよ。やらずに悔やむより、やってから悔やんだほうが健康的だわ」 強く、言い切る。 「あの人を取り戻すと言い切ったのはあなたでしょう。もう一回、格好つけてくれたっていいじゃない。取り戻した人に会わずに去るなんてハードボイルドは、どうしたって似合わないんだし」 宏紀と天音が目を合わせる。 「……そうだな。確かに、オレにハードボイルドはまだ似合わない」 宏紀がはにかむように答えた。 その時、ポケットの中で携帯電話の着信音が響く。 ――公衆電話。 病院からのものに違いなかった。 天音が、かすかに笑みを浮かべて宏紀を見る。 「……どうするの?」 自然に微笑む彼女の声に合わせて、宏紀は今度こそ通話ボタンを押し込んだ。 ――了 |