宏紀くんへ
 私の作った花火なんだけど、祭りの中ごろに打ち上げられることになったの。
「影渡し」っていうご大層な名前がついてるけど、まあ、あんまり特徴のある花火じゃないから過度な期待はしないように。
 それにしても、花火を作りたいって思うようになってからもう五、六年は経ってるのよね。今思うと、高校時代の憧れとか目標って、結構その後の人生を決めると思うんだ。
 だから、宏紀くんもがんばって目標を見つけなよ。
 それじゃあ、明日、祭りの会場で会えるといいね。


   †


 そして、八月二日――大花火大会、通称「花火祭り」当日。
《次ぃー! ここで一発、新曲、行くぜェ! ……と言っても倉潮のライブでもうやったから、聞いた人はいるかもしんないけど!》
 どうやら、倉潮市出身のバンドグループ――PLO:パニックリリックオブセッションを、築都のお偉方は本当に呼んだようだった。確か先日の倉潮市でのライブでは結構な騒ぎになったと聞いていたが、しっかり日程を調整してきたのだろう。ご苦労なことだ――と宏紀は内心毒づいた。
 築都の大花火大会は、近辺はおろか全国ネットで放送されるほど、有名な花火大会である。花火だけでそれはすごい話題性を確保しているのに、そこにご高名なバンドグループなんて呼び寄せたら、花火が疎かになったり、花火が目立たなくなるんじゃないか、なんて不安。
 そもそもロック系の音楽はあまり好みではないので、宏紀は中央ステージからそれとなく距離をとった。前座の音楽はともかく、花火は自宅の窓からでも見えるが、やはり間近まで来てお祭りの雰囲気を楽しみながらこその築都大花火だ。
 花火は、まだ上がっていない。一方で屋台だの人の往来だのはボルテージを上げ始めている。日はまだ沈みきらない時間だが、この前座ライブが終わる頃には花火を上げるにはちょうどいい明るさになっているだろう。
(もっと、遅い時間に来てもよかったな)
 いつもの感覚で祭りに来たと思ったら、普段は隣にいる悪友がいないことを今になって思い出した。あいつが隣に並んでいるからそこまで時間待ちを長く思わなかったのだろう。
「あれ、見覚えのある顔ね」
 声をかけられて、宏紀は真正面を向いた。
「……見覚えがあるどころか、これは引力か何かかしら」
 浅葱色の着物をまとった、藤沢天音がそこに立っていた。


「とりあえず、外に出ましょう」
 お互いに呆然と数瞬立ち尽くした後、天音は突然宏紀の手を取った。そのままぐいぐいと引っ張るように歩き始める。
「お、おい、ちょっとどこに行く気だよっ」
 そのまま引きずられるように移動する。
「油断したわ。いきなり何かクラスメイトの家に招待されたと思ったらいきなり眠らされるわ、気付いたらこんな格好だわ、そのまま車でここに放り込まれるわ……」
 ……いったい、それはどんなシチュエーションなのか。
 顔を赤くしながらうつむいて、天音は逃げるようにつぶやく。
「わたしをこんな目に遭わせたあの連中、善意でやってるのが頭が痛いわ」
 今でも不自然なわたしを盗み見て笑ってるのよ。どこかで尾行してるか見張ってるかに違いないのよ。天音は卑屈に低くつぶやく。
……それは、盗み見てるならむしろ今の状況のほうがまずいんじゃないだろうか。
 そう考えて思い出す。彼女はそのくらいの忍び笑いなら、間違いなく聞き取れるだけの能力を持っている。
「じゃあ一人で逃げればいいだろ」
 着物のくせに、歩くのがやたらと早い。自分のペースで歩けない宏紀の息は早くも上がりかけだ。それに、女の子に手を引かれるというのは久々すぎて慣れない。
 それに、宏紀の手を引いてくれていたあの人は、こんなに速く歩かない。
「うるさい」
 それでも、天音は一度宏紀に向き直った。
「せめて花火が始まるまでぐらいはいいでしょ?」
 言われて、断りきれるほど強気には出られない。おとなしく手を引かれて従うことにする。天音のことはともかく、宏紀自身は別にこのことで冷やかされても害のある知り合いなんていないし、花火が始まるまではどうせやることもない。利害が一致しているかどうかは知らないが。
 会場の市役所前グラウンドを出て、天音は手を離した。
「それで、落ち着いたか?」
「……まだ。あの連中まだ私を見て笑ってる」
 グラウンドを振り向いて、集中して辺りを見回す。確かに、物陰に隠れたつもりでこちらを指差している集団はいるが――
「どっちかって言うとあれ、笑ってるというより興奮してるという感じなんだけど」
 何を言っているかまでは宏紀には聞き取れないが、天音は自分のことが他人の話題になるのもあまり好きではないようだし、これ以上の追究は避けたものだろう。そもそも、彼女は何を言われているかなんて、きっと分かっているのだ。
 結局、一度会ってお互い同じ何かに殺されかけた身という共通点程度では、あまり話題も重ならない。自然、肩を並べて歩くだけになる。
「とりあえず公園で時間をつぶしましょう。屋外で音を通すために歪んだ音をさらにアンプで増幅させるなんて、聞いてられないわ」
 それは、ロッカーの方々に対していささか失礼ではないだろうか、というのも言い出しづらい。どうも彼女に言い返すのは苦手だ。
「……気になるんだけど、そういう音はどういう風に聞こえるんだ?」
 天音は首を傾げて考えた後、
「……ノイズの部分もかなり増幅されて脳をかき回される感覚かしら」
「そいつは……お気の毒に」
「慰めは気休めとして受け取っておくわ」
 そういえば、と新しく出た疑問もぶつけてみる。
「もしかして、その、《ライアーズノート》になる前はどうだったんだ?」
 宏紀がグリッド線が見えるようになってからよりシューティングゲームにのめりこんだように、名前を得たことによって趣味や嗜好が変化することはあるんじゃないか、と。
「……興味はあんまりなかったけど、屋外でも聞くことは嫌いじゃなかったわ」
 やっぱり。
 けれど、天音にとってそれはつらいことではなかったろうか。
 趣味や、夢や、好きだったものを、自分の意思とは関係のないところで奪われる。
 公園のベンチにたどり着いて二人並んで腰掛けた後も、気まずさと話題のなさで、雑談は特には起こらなかった。
《――あぁりがとぉぉぅ! それじゃ、この後の真打・花火も十分に楽しんでくれよォ!》
 グラウンドで、PLOのMCが前座ライブを終えたことを叫ぶ。
「……何よ、よそ者のくせに地元の人に大花火大会で花火を楽しめってどんな面で言ってるのかしら」
「今年は特によその人が多いからだろ。PLOのライブツアーに組み込まれてるらしいから」
 確かに、花火を楽しむことが前提の築都市民にとって、あのMCは余計な世話を焼いただけだ。言われなくたって、築都市民の宏紀や天音はこの祭りを楽しむためにここに来たのだ。――天音側は、何か妙なことが絡んでしまったようだが。
 宏紀は、ベンチを立った。
「とりあえずライブも終わったし、グラウンドに戻ろう。ここからじゃ、仰角きつすぎて首痛めるぜ」
 公園の真横を通る川や、その付近から打ち上げられる花火は、公園からでは真上をずっと見続けるようなもので、人が少ない分快適だが体への負担がよろしくない。
 天音も立ち上がると、行きと同じように二人並んで、静かにグラウンドへと歩き出した。
 グラウンドに戻るまでの道路には、既に人が大量にせり出している。場所取りに奮闘した会社帰りらしきグループがいれば、歩行者天国になっている道路の真ん中でたむろする小中学生もいる。誰も彼も、この日を待ち遠しく思っていたに違いない。
 色とりどりの光が、轟音とともに花開く。隣を歩く天音はこの音量はつらくないのかとも思ったが、顔をしかめることはなく、歩調も変わらない。
「そういえば、さ」
 こいつには話していいかな、と宏紀はつぶやいた。
「オレの知り合いが設計した花火が上がるんだとさ。昨日の夜その人からメールが届いた」
「素敵なことね」
 天音の返答はそっけないが、共通の知人でもないのだしこんなものだろうと思う。
「あの人の夢だったんだ、花火作りって。だからまあ、今年だけは死んでも祭りに来なきゃな、と」
 そう言うと、天音は複雑な表情をした。
「本当に死にかけたわたしやあなたが言うと、笑える冗談にはならないわね」
「それもそうだな」
 日も沈んだ夜とはいえ、花火の光で空はまだ明るい。逢魔が時はもう過ぎたが、あの化け物に遭ったのは逢魔が時よりも早い時間帯だった。……なら、ここで襲い掛かられるということもありうるのだろうか?
 浮かんでしまった考えに、条件反射的に寒気を感じた。
「気にしないで。いくらなんでも、こんなに人が多い場所であんなのが襲い掛かってくるわけないわ」
 後ろ髪を手で払って、天音は毅然とした表情を装って言った。自信があるというよりも、不安を押しつぶそうとしてこんな態度を取っているのだろうかと宏紀は思った。
「そうだといいんだけどな……」
 深呼吸をひとつ。
《次の花火は、プログラム番号十九番、鞍生製作所提供の『影渡し』――》
 来た。
 宏紀は、食い入るように花火が上がる方向の空を見た。
 綾巳が設計した、初めての花火。
 彼女の夢が結実した証拠。
 綾巳に手を引かれて幼い頃を育ってきた宏紀にとって、見届けなければならないものだ。
 ぱすん。
 音を聴いた瞬間、天音が頭を抱えた。
 連続で、右から左へ玉が打ち上げられていく。
 破裂する。
 その瞬間に、隣で立っていた気配がくずおれる。
 振り向きたくなる衝動をこらえて、宏紀は光に見入った。
 破裂した大玉から、紫色の炎が上がる。直後にまばゆい赤色や緑色の光があふれたが、やや明るい闇色――おそらくルビジウムやカリウムの炎色反応で生み出された炎は、他の玉に伝染するように広がり、夜闇にまぎれて感染する。
 ああ、確かに、これは『影渡し』だ。
 闇色の炎を影に見立てて、影が伝染するように空を渡る。
 あるいは、影は光の言い換えだから、光が空を伝っていく。
 大層な仕掛けかどうかはわからなかったけれど、綾巳らしいファンタジックな命名だと思った。
 そして、光速に遅れること数瞬、遅い音速に乗った情報が宏紀に到達する。
 何のひねりもない炸裂音。
 そして、











 ――助ケテ助ケテ助ケテ痛イ痛イ痛イ怖イ怖イ怖イ恐イ恐イ恐イ熱イ熱イ熱イ身体ヲ返シテ助ケテ痛イ恐イ熱イ苦シイ苦シイ焼ケル焼ケル壊レル苦シ助ケ怖イテムタ焼ケルス怖イケテイ助ケタイコワイアツイクルイタシイ返シ壊コワレイル――








 常軌を逸した、幼子たちが苦しむような怨嗟の声が届いた時。
 宏紀の目には、紫色の炎で描かれた、怨念が凝固したような幼子らしき面が見えていた。


「……ッ!? おい、大丈夫か!?」
 我に返り、慌てて、隣でくずおれた天音を抱き起こす。隣にいた宏紀でさえはっきりとあの声が聞こえたのだから、非科学的な声や音も聞こえる上に増幅してしまう天音が受けた衝撃は、並のものではあるまい。事実、彼女の呼吸は苦しげで、抱き起こしても反応が弱い。
(気を失ってるだけ、か)
 音だけで気を失うのも相当だが、あの炎で描かれた顔を見ていないだけ彼女は幸せなのかもしれない。
 周りを見渡すと、宏紀と天音に好奇の視線が無数に突き刺さっている。花火の楽しみに場違いな大声で水を差したのは申し訳ないが、あれだけの声や絵を見て焦らないほうがおかしい。
 事ここに至って、宏紀は気付いた。
(あの声や光は、他の連中には見えてないのか?)
 そうとしか思えない。でなければパニックになっているはずだ。
 名前持ちになったせいで、余計なものを見聞きしてしまったのか。しかし声は天音の専門だ。グリッド線が見えるだけなら、宏紀の《アルカナルーラー》では聞こえないはず――宏紀はそう考える。
 けれど引っかかる。
 もしグリッド線が見えるだけなら、あの時に見えた塔は関係ないんじゃないか。
 でもそんなことは後回しだ。
「待ってろ、藤沢」
 まずは、彼女をここから運び出すのが先決だ。
 宏紀くん、と。
 苦しげな表情をした彼女が、そうつぶやいた気がした。

 救護スペースには寄りづらい。既に熱中症や脱水で倒れている人が多く花火の音源も近く、天音が休めそうな雰囲気ではない。となると、涼しくて人気の薄い場所を探すしかない。幸い、こちらを見ている人はいない。花火は上がり続けているが、やはり観客は動揺した様子もパニックになる様子もない。
 結局、市役所の裏手にある坂を上ることにした。市役所の上には図書館や武道場のあるスペースがあるから、そこにならそうそう人は来ないだろう。
 案の定、この場所には人がいなかった。夜遊びをするには、この場所は厳粛すぎる。結果遊び盛りの若者には近寄りがたい場所になっているらしい。図書館外のベンチに天音を座らせ、宏紀は近くの自販機でとりあえずミネラルウォーターを一本買った。好みがわからないならこれが無難だろう。
 まだ、天音は目を覚まさない。表情は穏やかになっているが、夏といえど今日は涼しい夜だ。額に浮かんだ汗が痛々しい。時折吹く強めの風が、宏紀たちから体温を奪う。
 水のボトルを、ベンチに置いて宏紀は天音から視線を外した。どうにも気まずい。
 数分立ち尽くした後、街灯からの光が遮られた。
「……綾巳姉さん」
 光を背に、自分の花火の打ち上げを終えた綾巳が立っていた。作業服ではなく、いつもの私服だ。暗くて、表情が読みづらい。
 そう遠くない場所で、花火の破裂音がこだまする。
「綾巳姉さん?」
 それでも、彼女の顔色がよくないことだけは見て取れた。
 一歩踏み出そうとして――
「来ないで」
 綾巳らしくない、冷たい声で宏紀の足は止まった。
「……どうして」
 疲れただけなら、普段の綾巳はこんなことを言わない。
「もう、疲れたの」
 なら、なぜ今日の彼女はこんなに冷たいんだろうか。
「ずっと、ずっと眠れなかった。もし眠ってしまっても、休まずに走り続けそうな気がして眠れなかった。いつの間にか眠ることが怖くなって、気付いたら今日はもうこんなに眠いの」
 ――違う。この人は何かが違う。
「もしかして宏紀くんも、聞いちゃったんじゃないかなあ」
 諦めきった声に、背筋が粟立った。
 何か、おかしい。
「頑張って花火を打ち上げて――設計してない、あんなに怖い顔が浮かんだり、すごく痛々しい声が聞こえたり。でも打ち上げられた花火を見た人は、キミたち以外何にも反応しなくて怖かった」
 数日前の夢が思い出される。
「人がいないのは知ってたからここで休もうと思ってたけど、先客がいたなら仕方ないもの」
 待って、綾巳姉さん。
 そう声を出そうとした瞬間に、宏紀の足が完全に震え上がった。
 強烈な、硫黄のにおい。
「……逃げて、宏紀くん。お願いだから」
 目を閉じた綾巳は、今にも倒れそうで、
「でないと、私は――」
 綾巳の首が、力なく傾いだ。
 殺意を帯びた、あのにおいが一気に収束する。
「やっぱり――」
 やっぱり、そうなのか。
 あの夢はただの悪い夢じゃなかったのか――そうであってほしかった。
 月明かり、星明かり、街灯の明かりに、影渡された花火の明かり。
 その下で、あの悪魔的な化け物が、綾巳の髪を一瞬で伸ばして現れた。


   †


「へえ、キミが川崎宏紀、ねぇ」
 女は、舐めるように宏紀を見て言う。
「宿主のこの子から話は聞いてるよ。大切にしてる子なんだってね」
 こいつはもう、綾巳じゃない。
 あの優しかった綾巳姉さんとは一線を画している。
「まあ、自己紹介だけしておこうか?」
「……黙れ」
 頭の中で、こいつに対する勝ち筋を考える。
 前回は武器として鞄があった。今回は完全に無手だ。
 天音がいるのも変わらない。ただ今回は、彼女はきっと宏紀をフォローできない。
「私は、」
「黙れ……!」
 それなら。宏紀は腹を括った。
 天音を守り抜いて、綾巳も救い出す。
 この馬鹿馬鹿しい化け物だけを殴り飛ばす方法はあるかどうかなんて、考えない。
「《悪夢の塔の檻髪姫》。実に素敵なセンスよね、この名前。この子の頭の中を覗いたらこんな面白い言葉があるなんて」
 くつくつと女は笑む。
 名前だけで、宏紀は直観した。
「ラプンツェル……」
 強引に身体をよじり、夜闇で見づらい黒髪の槍を回避する。
 ラプンツェル――グリム童話で、梯子にできるほどの見事な長い金髪を持っていた娘の名前。それが殺傷能力を持っているとは聞かないし、『ラプンツェル』はそれなりにハッピーエンドを迎える物語だ。
「ロンドン塔って、聞いたことない?」
 女は次々に槍を繰り出しながら、嗤う。
「宮殿としても使われているけど、反逆者を捕らえる牢獄と、処刑場としても機能する素敵な塔だった……!」
 恍惚とした声でさらに激しく髪を伸ばす。いくら集中してグリッド線の助けを得ても、これではその場の体捌きで髪を避け続けるのが精一杯だ。
 処刑される直前の悪夢。
 塔に閉じ込められてしまった幼子の悪夢。
 それを吸い上げてしまったこいつは、物語から抜け出して現実の人間に悪夢を見せる――。
 強烈な硫黄のにおいが、嗅覚と現実味を奪っていく。
「あの子は理性が邪魔だったのよ。良心さえなければ、早く壊れて楽になれたのに」
 その一言で。
 宏紀の理性が一瞬切れた。
 身体を低く沈めて正面から突き出される槍をかいくぐる。上から薙がれる鞭のような髪は身体を傾けて避ける。
 ベースになっている身体の運動能力の差だろう。直接的な運動速度なら、宏紀にまだ分があるらしかった。
 凶相を浮かべる綾巳の顔を思い切り殴りつけるのがためらわれ、狙いを鳩尾に変える。
 震脚。
 直後、さらに濃くなる硫黄のにおいに、宏紀は身を転がして逃げた。数瞬前まで首のあった位置を、白い閃きが抜けていく。
 爪だと気付いたのは、槍が頬を掠めた後だった。
「種明かしをしてあげようか」
 邪悪に女が笑む。
「私が髪や爪を操れるのは、何も根拠がないわけじゃない」
 もはや人間の爪とは思えないほど伸び、鋭く変形した爪を愛でるように撫でる。
「システインっていう物質がある。生物上重要な二十のアミノ酸のひとつね。これは身体各所でさまざまな機能を果たしてるけど、髪や爪にも含まれてる」
 生物科目の常識ね、と一度教師のようにのたまってから、
「硫黄を含むその物質を私は操作してるだけ。際限なく何かを伸ばせるというわけでもないけど、バラしたところでキミが何かできるわけでもないでしょう――!」
 女が突進してくる。
 爪の伸びた右手を下から跳ね上げ、かいくぐる。続け様に伸びてくる髪は走り抜ければ宏紀のほうが速く、逃げるだけならまだ何とかなる。
(武器の有無がきつすぎる……!)
 素手であの髪を受け止めたら手足が切断されかねない。前回この化け物と戦ったときだって鞄が両断されなかっただけマシだというものだ。
「ほら、もっと必死に走って走って……私を楽しませなさいよ!」
 完全にハイな状態になっている女を無視して、宏紀は走る。というよりも無視して走らないとすぐにでも空から降る無数の槍に貫かれそうだ。
 駆け回るうちに、天音が視界の端に映った。
 彼女が目を開く。
 目が合う、瞬間。
「――避けて、足元!」
 悲痛すぎる叫びに、辛うじて宏紀は反応した。体勢を大きく崩したが、足元で薙がれた髪を間一髪飛び越える。執念深く追いすがる槍が宏紀の足を空中で払い、宏紀はアスファルトの上に墜落した。
 何本もの槍が、宏紀の目の前で形成される。
「お休み、宏紀くん」
 その声だけはいつもの綾巳の声で、かえって怖気が増す。
 かといって宏紀が動ける暇もなく、切り抜けるには遅い。
 槍が宏紀に向かって振り下ろされ、天音は顔を手で覆う。
 その槍は。
 赤い光と甲高い音をまき散らして、空中で静止した。
 連続で振り下ろされる殺人槍は、その全てが宏紀の目の前で遮られる。
「……面白くないことやってんね、川崎君」
 冷めた声で、白い服を着た少年が場に割り込んだ。
「……日阪」
 白いパーカーに、紅色の虹彩。日阪は黒髪の槍衾が引っ込んだのを確認して、かつて宏紀に仕掛けた不可視の壁を解いた。
「興醒めね」
 女が夜闇に髪を逆立てる。
 三人とも狩り尽くす。
 殺意迸る髪の前で、宏紀は叫んだ。
「待て! ……まさか、子供を攫って殺して回ってたのは」
 闇の中でもわかるほど禍々しく、女が笑みを浮かべた。
「そう。あの子の心がようやく折れたんだから、無駄じゃなかったわ」
 この女が、――彼女の中から吸い出された名を名乗る何かが、子供を殺して得た髪や爪からシステイン――硫黄を取り出して、火薬に混ぜ込んだ。
 思いついてしまった仮説が的中して、宏紀は顔をしかめた。
 だとすれば、夢を追い続けた綾巳が痛ましく、それ以上に救われない。
「……アンタが、この町を騒がせていた名前持ち(ネイムド)って事か」
 日阪が低くつぶやく。
 無言で、定型二番の剣を取り出した日阪は、力強く構えた。
「先輩ほど荒事は得意じゃないけど……ここで終わらせてやる!」
 日阪と女が互いに突進する。爪を剣を己の武器で受け止め、弾き返しては本体を斬りつけるチャンスを互いに伺う。
「川崎君! その子を連れて一旦逃げろ! ここは僕が引き受ける!」
「そいつは死亡フラグってやつじゃないのか!?」
 力ずくで女を弾き飛ばすと、日阪はサムズアップで応えた。
「日阪、絶対に死にも殺しもするなよ……!」
 困惑する天音の手を引いて、宏紀は全力で駆け出した。


   ‡


「それじゃ、サシで始めますかね」
 一度リラックスして重量のない剣を下げ、日阪は冗談めかして言った。
 そのまま、かつて宏紀にしたように剣を全力で投げ放つ。女は一瞬だけ意表を衝かれたようだったが、次の瞬間には猛速度で横に飛んでいた。
 手の内に再び剣を生成し、互いに激突する。襲い来る槍は当たりをつけて生成した壁で防ぎ、剣で爪を迎撃する。相手の間合いが広すぎる上、濃厚な硫黄の異臭が平衡感覚を狂わせかねない。日阪も《ルビー》の機能を活用して感覚を補正する。
 数度打ち合った後、女の爪に耐え切れず、剣が半ばから折れ飛んだ。追撃の爪と、新しい剣を作るために取り下げた壁を抜けてきた槍はバク転の連続で凌ぎきる。奥の手があるにはあるが、まだ使いこなせず消耗が激しいためにそう気軽には使えない。
「――ッ、剣、定型一番(load_data(sword, 1))!」
 形状が若干違う剣で次は挑む。宏紀に撃った情報圧の弾は見掛け倒しで、威力なんて欠片もないせいでこの場面では使えない。銃は生成できるのは形だけだから意味がない。弓は形としては生成できるが、弓道もアーチェリーも経験のない日阪では扱えない。武器に剣を選んでいるのはとりあえず振り回せば何とかなるだろうというくだらない理由で、その上遠距離攻撃手段に富むこの女は、ただでさえ数少ない日阪の交戦経験からかけ離れた敵なのだ。
 突進する直前、足元に迫る髪に気付く。
「ん、のぉッ!」
 前方に移行させるはずだった運動エネルギーを上方向に切り替える。跳躍したところを狙ってくる槍衾は、空中に生成した壁を縦横無尽に蹴って回避する。
 空中で体勢を立て直し、槍を避けつつ高度を下げて着地する。正対した次の瞬間には、女は既に日阪の懐に潜ろうとしている。
 全力で飛び退る。壁を生成するが、時間が足りずあっさりと引き裂かれた。赤い光が飛び散り、とっさにその破れた情報のかけらを日阪は女に打ち込んだ。威力はないが、名前があるならこれで能力の当たりはつけられる。
 しかし、名前の情報は何もない。
「チッ……!」
 いつか戦った、世界から名前をつけられたわけではなく、自分で世界に対し名を名乗ったタイプの名前持ち――曰く、名前無し(ネイムレス)
 それでも、髪と爪を伸ばして戦っている以上はそれに関連した名前がついているはずだ。それ以上は知りえない。
 呼吸を整え、再び構える。ただし今度は、全力で突きの構えだ。左足を前に、左手を敵に向けて伸ばし、右手で持つ剣は左手で支える。
 女が逆立てた髪が日阪に降り注ぎ、
剣伸長二倍ッ(obj_length *= 2)……!」
 日阪の剣の長さが、倍になる。
 女がわずかに驚きの表情を浮かべ、それでも物量で日阪を押し潰す。
「食らえ――」
 そのまま、日阪は腕の力で剣を押し出す。

「――全存在情報化(Self.convert_to_units)

 もうこの切り札を切ることになるとは。日阪は奥歯を噛む。
 槍衾が、全て地面に立つ日阪を透過する。
 痛みを感じないわけではない。全身、全神経、全精神を一度情報化して逃げるだけの大技だ。情報が失われれば、その部分は痛い。後で世界側にバックアップしてあるデータをダウンロードすればいいだけだが、戦意が萎えるほどの痛みは歓迎できない。
 三次元座標を指定して、自分の全情報をその場へ瞬間移動させる。自身を情報化させる最大のメリット――物体透過と瞬間移動は、日阪にはまだ使いこなせない。
「――全存在再構成(Self.convert_to_solid)
 苦痛に負けて、肉体を再構成する。十秒もたなかった上、お気に入りのパーカーはぼろぼろになり、立ち上がるのも億劫になるほどの疲労と痛みを感じ、槍衾が消えた先に見える女は、刀身二倍で突き出した剣で不意打ちしてなお無傷。
(……本当に、死亡フラグってものを立てちゃったかな)
 後ろから、全力疾走する慌しい足音が聞こえる。
 再び展開する槍衾。
 渾身の力を込めて、
「――生成、壁(load_data(wall, 1))……!」
 不可視の壁を、槍衾に叩きつけた。


   ‡


「とりあえず、ここから逃げろ藤沢」
「どうして……!」
 全力で日阪と化け物から距離をとった後、宏紀は踵を返した。
「……あの化け物、オレの知り合いの身体を乗っ取ってんだ」
 悪夢は正夢になりつつある。このままいけば宏紀は殺されるかもしれない。
「それでもさ。逃げられないときって、あるんだ」
 だから。
「だからオレは戻る。綾巳姉さんをワケわかんねえこんなオカルトじみた世界から取り戻す。あの人はオレの誇りなんだから」
 天音は何も言わない。
「じゃあな藤沢。お前は逃げろよ。今からなら、きっとまだ逃げ切れる」
 あまり日阪に任せっぱなしにもできない。何せあの化け物だが相手だ。日阪にも切り札はあるだろうが、奴もどんな奥の手を隠しているか分からない。
 走り出す。
「言い逃げなんて卑怯よ……!」
 か細い天音の抗議は無視した。無視しないと、足が止まってしまいそうだった。

「日阪!」
 戻った宏紀の目に映ったのは、宏紀を一方的に翻弄した日阪がぼろぼろになりながらも攻撃を防ぎ続けている様子だった。
 完全に劣勢。日阪も真正面から上から横から飛来する槍衾を壁で防ぎ続けるので精一杯のようだ。
「このまま逃げてれば、君たちは逃げ切れたかもしれないのに」
 何で戻ってきたんだい。
 言い逃げなんて卑怯よ。
 日阪の声に重ねて、天音の声が頭の中で残響する。
「……それは」
 拳を握って、宏紀は答える。
 宏紀に取り憑いた《アルカナルーラー》という名前。世界が何を思って宏紀に与えたかは知らないが、名前である以上何らかの意味があって与えたに違いない。
 まだ、これが自分のものとは到底思えないけれど。
「あの人を救ってやれないなら、この名前になんて意味が無い」
 憧れの姉貴分を救うために。
「――そのためになら、オレの名前をくれてやる」
 脳裏で、初めてこの化け物と対峙した時の光景が蘇る。
 倒壊した塔が逆回しに組み立てられる映像は、神話時代に神の怒りを買って打ち壊されたバベルの塔のものだという予想はつけていた。
 バベルの塔が倒壊する以前、世界はひとつの言語しかなかった。
 それなら、その時代に人々が持っていた単位も、また共通のものだったはず。
 緑色の0と1が宏紀の脳内で弾ける。
 根源的な単位を示す、奇跡(arcana)ものさし(ruler)
 それが、この《アルカナルーラー》の正体だ。
 そこまで脳内の組み替えられた回路が推理を進めた時、爆発的にグリッド線が細かくなった。強烈な硫黄の異臭にも揺らがない、絶対的な基準――神代から世界に刻まれた、根源的な単位で宏紀は世界を見る。
「戻ってきたんだね、キミ」
 いまさらのように、女が言う。
「やっぱりキミを殺さなくちゃ満足できない。何せ、この子の一番大事なものを壊しておかないと、本当の意味でこの子は壊れてくれないだろうから」
 からからと、月の光を浴びて女が嗤う。
「……どうして、綾巳姉さんを」
 きっと、この化け物が綾巳を選んだことには理由がないのだ。世界から名前がつけられるとか、亡霊だの悪霊だの生霊だのが生物に憑依するとか、そんなものはビルの屋上で交通事故に遭うほど現実味がない。
 決まってるじゃない。女はこのときだけは迷いなく微笑んだ。
「現実に何も意味を与えない存在なんて、価値がないでしょう?」
 それだけのために。
 自分の存在を、価値を証明するために、ひと一人を壊して、数多くの命を奪うとでも言うのか。
 そんなものは、許すことなどできない。
「……もういい、黙ってろ……!」
 ここに至っても、綾巳を救い出す手段は何一つ思いつかない。
 それなら、せめて自分の手で楽にするのも、ひとつの救いだろうか。
 ぎり、と奥歯を噛みしめる。
 グリッド線が空間に満ちる。
 宏紀は、先制して地面を蹴った。
 弾丸のように走る。身体能力でなら勝るのなら、そのアドバンテージを利用するしかない。
 十メートルの間隙を一投足で詰め、鳩尾に向けて右の正拳突きを放つ!
 かわされたわけではないが、直撃はしなかった。それでも身体をよじらせた女の右肋骨の一本は折った手応えがした。
(綾巳姉さん、ごめん)
 彼女を傷つけることを厭わないわけじゃない。
 それでも、止まらない。
 左で、さらに正拳突き。
 今度は、両手で受け止められる。
 既視感。
 次の瞬間に浮遊感。
 以前のように投げ飛ばされ、以前とは違い夜に溶け込んだ黒髪が宏紀を切り刻もうと迫る。
(wall)……!」
 目の前で赤光が閃く。もう攻撃に回す余裕はほとんど無いのだろう、日阪が宏紀の正面を覆うように壁を形成する。切断こそ免れたが、髪は壁を切り裂き宏紀をアスファルトへ叩き落す。
 落下。
 衝撃。
 目の前が一瞬暗く染まる。
 とっさに転がり、降ってくる槍をかわす。
 身体のばねで跳ね起き、距離を取ろうとして、宏紀の足が止まった。
 髪に、あの女の武器たりえないものが包まれている。
「しまった……!」
 日阪が叫ぶ。夜闇でも透き通る塊は、日阪が自分の力で生成した剣だ。それが、あの女の髪に巻かれている。
 不思議と、動揺することは無かった。
 髪が動く。
 ――あの女は、きっとこの剣を振り回すのではなく投げてくる。
 脳内の単位系が、得られる情報を元にグリッド線を組みなおす。
 ――根源的な共通単位なら《アルカナルーラー》は読み取れる。
 その場にいる日阪の《ルビー》の機能を、共通単位で認識する。
 ――世界を0と1で覗く彼の名前は、宏紀の名前と相性がいい。
 共通単位に変換した《ルビー》の計算情報を、脳内で処理する。
 ――初速度の算出完了。
 ほどけるように髪が解け、水晶の剣が、宏紀目掛けて飛行する。
 ――空気抵抗と加速度の補正処理完了。
 一瞬後、宏紀は前に踏み出した。
 ――相対速度の処理完了。
 間隙は二十メートル。
 ――交差点の算出終了。
 剣と宏紀が交差する瞬間、宏紀は身を屈めて手を伸ばした。
 猛速度で飛来する剣を、寸分の狂いもなく右手で掴み取る。
 ――前方から髪。
 剣の速度を握力で殺し、一歩踏み込んだ瞬間、前方から無数の槍が飛来した。
 ――これが、最大のチャンス。
 強行突破する。
 直撃する点をグリッド線から読み取って身体から外し、かする程度の槍は甘んじて受ける。髪で貫通されなければまだ動けるし、多少の血が出たところで即死するわけではない。そう踏んで、一瞬で萎えそうになる精神力を総動員してさらに一歩駆ける!
 全身を槍が掠めていく。
 射程圏内。
 女が驚き、
 綾巳の顔が穏やかに笑んだ。
 宏紀の身体が一瞬強張る。
 それでも、もう止まらない。
 勢いの乗った右腕は制止できず、
 そして《アルカナルーラー》の誘導に従い、
 宏紀の精神(からだ)に染み付いた精確な動作によって、
 寸分狂わず違わず。
 彼女の心臓を貫いた。
 破壊した感触はない。

「――これでもう、やすめるのかな」

 耳元で、綾巳の声がささやく。
「ふざけるなッ……! こんなところで死ぬとか考えないでくれ……!」
 剣を引き抜け。まだ間に合うはずだ。
 宏紀の身体は動かない。
《う、ァ、ア、アアァァァ――――ッ!!!!!?》
 耳元で、今度は化け物の音調で甲高い絶叫が響く。
 髪が暴走して、宏紀の右肩を貫いた。
 目の前が真っ赤に染まる。
 そして、不気味な紫色の炎を上げて、髪が、静かに燃える。
 熱は感じない。痛みも感じない。
 興奮物質が痛みを抑えているのとは別次元の伝達。
「宏紀くん」
 また耳元で、弱々しく綾巳がささやいた。
「――ありが、……」
 痛みを奪われ、熱を奪われ、
 宏紀と綾巳は、互いに視界を断絶させる。