青空というものを満喫しようと秋晴に聞いたところ、この学校という建物では屋上という場所が一番いいらしい。その屋上の扉を開けた途端、オレにとってとんでもない会話が耳に入ってきたのだ。
「四人にコードスキャンかけてみたところ、緑色のダウンジャケット着た空気の読めないリーダー格以外の三人から、同一の命令文を検出しました」
 話が教室で聞いたような和気藹々とした会話とは異質すぎる空気が男と女の間にあった。
「命令文は《ルビー》の文法とは違うタイプのもので解読は出来ませんでした」
《ルビー》。どこかで聞いた名前な気がする。
「ネイムドの暴走、愉快犯、故意犯、いろいろと考えることは出来ますが、《ルビー》としては、執行者である《トラッシュメイカー》に、この件の処理をお願いしたい」
 執行者《トラッシュメイカー》。
 その名称に、オレの意識が大きく揺さぶられた。
 ――おい、いきなりどうした!?
 秋晴が呼び止める声も無視して、全力で扉を引き閉め、オレは扉にもたれかかった。
 あれは天敵だ。
 執行者。つまり処刑執行者。《トラッシュメイカー》という『名称』からしてそうだ。
 このままだと殺される。
 いつかオレが殺される。
 きっと秋晴も殺される。……それだけは、許されない。
 どうすればいい?
 単純明快。どうせあの《ルビー》の眼から逃げられないなら、奴らを倒すしか道はないのだ。
「……秋晴。この近くに、大量に人が集まる場所とかないか?」
 ――何をするつもりなんだ、《笛吹き》。
 ……ちょいと、命を賭けて博打めいた戦いに臨むんだ。


   ‡


「遅いなぁ……」
 土曜日、PLOアニバーサリーライブ当日の午後一時十五分。開場十五分前になっても一咲から何の連絡もないし、さらに十五分前にはシルフズガーデンの噴水広場を隅々まで探したつもりだけど、一咲の姿が一切見当たらなかった。さらに突っ込んで言えば、誰かが寝泊りしたような形跡もない。行列も長くなっていて、前に行って確認するのもどうやら難しそうだ。
 一応、昨日の放課後に来たメールによると、一咲はこの場所――シルフズガーデンの噴水前を待ち合わせ場所に指定したらしい。妖精の踊りをかたどって、設計者たちはわざわざ噴水にフェアリーズ・ダンスなどというご大層な名前をつけたらしいが、私たち一般人にとっては絶対に見逃さない絶好の待ち合わせポイントでしかない。確かに待ち合わせポイントとしては一級品だけど、見渡す限り私のように一人で歩いている人間が見当たらない。男女のカップルないし親子、女の子同士のグループだらけだ。男子グループが見当たらないのは意外だけど、たぶん倉潮市の男連中はこの炎天下の中立ちっぱなしで延々と演奏を聴き続けようと思っていないんだろう。私だって、一咲に誘われでもしなければいくらファンだったとしてもライブに行こうとは思わなかったんだし。
 撒き散らされる水が噴水の石像を叩いて、空気の爽やかさを演出しようとしている。しかしその程度では、何の足しにもならない。爽やかな太陽が殺意の熱線を浴びせている暑いこの夏、たかだか水飛沫では誤差にすらならないちっぽけな変化しかもたらさない。
 ポケットの中で携帯電話が振動する。電話の着信。一咲の家の固定電話からだ。
「はい、久住優奈です」
『優奈ちゃん、うちの一咲は今どうしてるのかしら? 順番ちゃんと取ってて電話に出られないだけなのかしら?』
 一咲のお母さんだ。この口ぶり、やはり昨日は親子ぐるみで一咲の病欠を演出したらしい。
「それが、十五分ぐらい前から探してるんですけど見当たらないんです」
『あらどういうこと? 一咲が場所とっててくれないとわたしがいい場所で宗司くんを見れないじゃないの』
 娘の心配より自分の満足を優先しやがった、この親。
「……わかりました。一応探してみますけど、おばさんもそろそろこっちに来ないと入場するしないの話じゃなくなりますよ?」
『はいはい、わかったわよ。それじゃあ一咲を探して説教しておいてね』
 通話が切れる。入れ込んだら一方向的なのは親子で同じか。
 別に会場に入れればそれでいい私は、もう一度噴水広場を探し回る。……それでも、いない。
 いくらなんでもおかしい。
 いくら私よりもPLOの方が重要で大好きで大切だったとしても、一咲は自分から言い出した約束は今まで破ったことがない。サイン会があるなんて話は聞いてないし、全く姿も見せないというのは何か事情があるのだろうけど……どうしたんだろう。
 一時三十分。ハンドスピーカーから、入場開始のお知らせアナウンスが叫ばれる。最初から積みあがっていた行列を含めて、人間の流れがライブステージ入口に一気に向いた。道行く人のほとんどが同じ方向に移動し始めたらしく、整理員自身もかなり慌てているようだ。確かに、人の濁流なんて普通に生きているうちには経験しないだろうから、私だって焦ると思う。
 人が移動していくにつれ、噴水前のスペースの人口密度が小さくなる。私にとっては快適快適。熱気のこもった場所と人口密度が異常な場所は苦手なのだ。
 それにしても、一咲はどうしたんだろう。
 もう少しだけ待つとして、噴水に目を向けてみた。風の妖精シルフをモチーフにした均整の取れたボディラインが美しい石像は、おそらくは風を模したのであろう水飛沫を浴びて輝いている。
 冷たい雫が、絶えず妖精の肌を滑り落ちる。まるで――いや、違う――幻想を鏡映しにしたか、そうでなければ現実世界に切り出されたおとぎ話の世界に取り込まれそうになった。
 後ろから肩を叩かれる。後ろからなら一咲は抱き着いてくるのが常だから違う人間だ。
 何されるか分かったものじゃないなら自己防衛。
 右肘を曲げ、振り向きつつ背後のそいつに全力で打ち込む。まともに当てられれば大の男でも動きは止められると自負している威力の一撃は、しかしあっさりと流されてしまった。
 そのままの勢いで体を回転させ振り向く。さらにバックステップで距離を取り――
「いきなり肘打ちなんてひどくないですか、先輩」
 日阪暁嗣だった。格闘技の修練もしていないのにあの距離から肘を受け流した反応力は、やはり私たち特有のものだろう。右手首をひらひらと振ってほぐす動作が、完全に上を行かれたようで何か悔しい。
「私の背後に立つんじゃないの。変質者かと思ったじゃない」
「後ろから抱き着いてくる新庭先輩には何も言わないのに?」
 ……よくよく考えると、そっちのほうがもっと変質的というか変態的なアクションなのかもしれない。いや、私の親友相手にこの男は何て扱いをしてくれるのかしら。
「それにしても、何でここに来てるのよ。実は音楽も趣味だったの?」
「華麗にスルーしましたね先輩。そりゃこんなビッグイベント、一生のうちにもう一回あるかどうかわからないじゃないですか。それを完全にスルーして自室にこもってカタカタキーボード叩き続けるのはなかなかイタいと思うんですけど」
 日阪の趣味はまずプログラミング、次に読書だ。休日は一日中真っ暗な部屋にこもってプログラムコードを書いているなんてまことしやかな噂が上の学年にも届いているほど不気味がられているらしい。それがお祭り好きだったなんて、意外にも程がある。
「……で、先輩は何でここで呆けてるんですか? 新庭先輩と来てたんじゃなかったんですか?」
「その誘った本人が泊まりがけで順番取ってたはずなんだけど、見当たらないのよ」
「携帯電話での連絡、しました?」
 日阪はそこまで深刻には受け止めていないようだったけど、状況は理解してくれたようだ。
「……親御さんが連絡取れないって言ってたけど、私も一度掛けたほうがいいかな」
 アドレス帳から一咲の電話番号を選び、発信。
 呼び出し音が重なる。十回、二十回、三十回……
「だめね、出ないわ」
 まだ試してみよう。
 数分の間、日阪が会場の外を駆け回り、私はさらに一咲にメールを送り、電話をかける。それでも一向に反応がない。電源を切っているわけではないようだし、シルフズガーデンは電波が(あらゆる意味で)飛び交っている場所だ。何かの拍子に幽霊と混信することはないとしても、携帯電話サービスの電波が届かない場所じゃない。
「こっちも、いないみたいです」
「どうしたのよ一咲……こっちもダメ」
 時計を見た。開演まであと十分――警備員によると開演後は入口を閉め切るとのことらしく、とりあえずライブも見たい私としてはもう探している時間がない。一咲がきちんと中に入っていて、このライブをしっかり楽しんでいることを祈るしかない。
「私はもう行くよ。日阪くん、キミはどうする?」
「ま、ちょっと割高だったとはいえ券は買ったんだし……コスト分は、僕も楽しもうと思います」
 致し方ない。
 ここはあぶれもの同士、手を組むとしよう。
 肩を並べると、背丈は日阪のほうが少しだけ高かった。
 カップルだ何だのと勘違いされるかもしれないのは不本意だけど、今は妥協しよう。
 せっかくのライブだ。とりあえず、私もいつもの一咲みたいに楽しめるかな?


   †


《それじゃあ、一曲目! 「ユニヴェール」から!》
 シルフズガーデン・ライブステージ。広場の各所に備え付けられたとてつもなく高価そうなスピーカーから、ヴォーカルの桜庭がそんなことを叫んだ。前口上はあまり述べず、すぐに演奏に入るらしい。実に私好みな単刀直入さだけど、ファンに対する挨拶は後からやるつもりなんだろうか?
 一部のファンは虹色の滝などと呼んでいるらしいが、確かに「ユニヴェール」は特徴的と言うべきか、それとも怒濤と言うべきか、力強いドラムパターンから始まる曲だ。私たちはステージを囲む席の最上段で立ち見ではあるけれど、ドラマー鷲見がスティックを繊細にコントロールしているのが見て取れる。ライブステージは古代ローマのコロセウムを思い起こさせる、半円の同心円状に座席が積み上げられたデザインで、やっぱり手に入れた裸眼二・〇の視力は伊達じゃないらしい。
 ギターの音がドラムに絡み、ベース音が土台をしっかりと補強する。シンセサイザーの音は宇宙的なイメージで作ったと塚原本人が語っていた。そんな宇宙的なデコレーションのなされた音楽に、歌が浸透して楽曲が完成する。私が一番好きなPLOの楽曲は、そんなイメージだ。解釈するなら、「それがたとえ世界の中心じゃなくても、誰にだって輝ける場所とチャンスがある」といったところだろう。曲解かもしれないが、確かに宇宙だの世界だのという規模は中心に立つには大きすぎる。
 なら、『世界』に縛り付けられないようにするにはどうしたらいいだろう? それが『私たち』の命題だと分かっていながら、私と日阪は何も考えずに数ヶ月過ごしただけだった。
 この近辺に新たに現れたというネイムド――『世界』から『名称』を貼り付けられた人間は、もしかして私たちに対する警句なんだろうか。そう考えずにはいられない。
 しかし、実際に考えに入る前に、曲が終わってしまった。聴き入る間もなく終わってしまったのが惜しい。力強いドラムが印象的なこの曲を除けば、鷲見は比較的大人しい叩き方をする。もったいないけれど、それはきっとPLOが表現したい『世界』のために必要なことなのだ。
 ……考える。
 私も日阪もネイムドだ。意味のない名前をつけるなんて、たとえ神様でもやりはしない。なら、突き詰めていけば私も日阪もそれだけの理由があって『世界』に『名称』を貼り付けられたのは間違いないだろう。
 日阪は私の『名称』を執行者と呼ぶけれど、それは『世界』のためにキリキリと働く象徴だろうか?
 日阪は修正者を自称するけれど、それも『世界』に縛られていることに誇りを持とうとする逃避ではないだろうか?
 ……気分が悪い。ただでさえ熱気過剰な屋外炎天下のライブなのに、さらに気分を悪くするネガティブな考えは今はよそう。
 演奏に聴き入っている日阪を驚かさないように、人ごみを離れてちょっとした日陰に移動する。バッグから徹底的に冷やしておいたミネラルウォーターのボトルを取り出し、一口飲む。これだけで大分楽になるなんて、人間の体というのは不思議で仕方がない。
 ライブは数曲の合間に桜庭や塚原のマイクパフォーマンスを挟んで、さらに熱を上げつつ進行している。遠目から見る限りでは、この熱気はどうにも下がりそうにない。観客席中頃にいるファン、そろそろ熱中症で倒れるんじゃないかしら。
 体も頭も大分涼しくなったし、そろそろ日阪の隣にでも戻ってあげた方がいいだろうか。一咲を探したいのは山々だけれど、この人ごみの中から探し出すのは無理だろう。
 座り込んでいた青いベンチから腰を上げる。
 そのとき、妙に熱っぽい視線を感じた。
 不審。視線を感じた方向に目を向けても、誰もいない。……涼しく感じているのは気のせいで、頭が熱でおかしくなったんだろうか?
《次ぃー! ここで一発、新曲、行くぜェ!》
 塚原の熱いシャウトと同時に、ドラムスティックが打ち合わされる音がスピーカーから高く響く。
《「ロスト・オン・ザ・ライド」!》
 聞いた事のない曲名だ。
 力強いドラムロールから曲がスタートする。Aコードが一閃。ドラムスティックが踊るように動く。Aコードを基調にした曲らしく、かなり激しいロックナンバーだと思った。私の好物だ。ステージの鷲見を一目見ようと少しだけ背伸びする。ステージ前は髪の毛の海になっていて、黒い波が逆立っているように見えた。
 アンプで強烈に増幅されたベース音が聞こえる。
《―――――》
 ……?
 ベース音に紛れて、何かの音が混じった。楽器のノイズというわけではなさそうだ。
《―――――》
 おかしい。スピーカーが熱気で壊れた? ……それならスタッフがすぐに動くだろう。スタッフが動かないということは、音響機器に異常はないのかもしれない。ただでさえPLOにとって重要なイベントなのに、屋外ライブに使うスピーカーやアンプのメンテナンスが行き届いていないせいでファンががっかりすることを、プロがやってのけるわけがない。
《―――――》
 あの手の機械は繊細ながら頑健だと聞く。使い込みのオーバーワークで機器の配線が切れているという可能性は確かにあるけれど、――このノイズが何か、全く判別できない。
 ドラムの激しいフィルイン。けれどその裏で、聞き慣れないノイズらしき音が耳を離れない。
 サビに突入するまでの盛り上がる接続。――裏でノイズ。
 ヴォーカルのシャウト。――裏でノイズ。
 サビも。――裏でノイズ。
 間奏、二番の歌詞、次のメロディ、ギターソロ。
 ノイズ、ノイズ、ノイズ。ノイズがうるさい。
 落ち着かない。
 落ち着けない。
 苛立って、左手側のスピーカーを睨みつけた。
 その場所に。
 黒い薄手のジャケットの下にPLOTの白地Tシャツ。タータンチェックのミニスカート。その上にある肩口で切り揃えた黒から茶色の中間色の髪。
「かず――――」
 生気のない少女の顔が、にい、と笑んだ。
 背筋が凍る。
 あの服飾センスは間違いなく一咲なのに。
 あれは違う。
 一咲の皮を被った何かが中で動いている。
 一体、誰だ。
 問題の少女に駆け寄ろうと、一歩を蹴る。
 曲が終わる。
 彼女が、少女の呪詛のように何かを呟く。
 不快な歪み。
 そのタイミングが、不快なノイズと一致。
 熱を帯びる。
 一咲のような何かが、私の目をとらえた。
 頭が冷える。
 黒い影が一咲に覆いかぶさっているよう。
 地面を蹴る。
 その影が、燃えるような目で、私を見る。
《次ッ! 「ブルーダイアグラム」!》
 彼女の好きな曲が始まってしまう。
 一咲の背後から、黒いシルエットが出現。
 日陰にいるその影が、私をあざ笑うかのように笑った。
 最初のスネアが増幅される。
 その瞬間。
《―――(βυδαφμωλ)―――》
 強烈なハウリングがすべてのスピーカーから産声を上げた。
 それだけで凄まじい圧力と吐き気を感じて、私はその場にうずくまる。
 等間隔、音を強めあうように計算ずくで設置されたスピーカーが、この時だけは恨めしく思った。凶悪なノイズがライブステージ全体に暴風のように吹き荒れ、この場所そのものを蹂躙する。
 ノイズに何かの意味を感じた。
 けれどそれが何かを考え始める前に、ばたばた、ばた、た、ばた、と、観客が次々に倒れていく。
 私でも膝をつくほどのハウリングの音に、確かに一般人がやられてしまうのは無理がない。けれど、PLOの連中は歌い続けている。
「先輩!」
 日阪が私目掛けて走り寄ってくる。
《―――(ιωγωυβυηνχ)―――》
 その前に、もう一度、ハウリングが爆発した。
 日阪が頭を抱えて膝をつく。私も嘔吐感をこらえようと必死になる。
 何とか立ち上がろうとしたとき、ざざざざ、ざざ、ざ、ざざ、と、倒れていた観客が、一斉に立ち上がる。そして一斉に私を見た。次に日阪を見、最後にまた私を見る。
 スピーカーの日陰を見る。
 一咲がいない。
 代わりに、日陰で色の判別しづらい人影がひとつあった。
(あいつだ)
 私は確信する。
(あいつが一咲を)
 私は激怒する。
(一咲からこの楽しみを奪った!)
 立ち上がり、地面を蹴ってあの人影をまず殴らなければ気が済まない。
「先輩! ――左だ!」
 日阪が叫ぶ。
 反射的に、前転して受身を取った。
 肉を打つ音が、後ろで響く。
 立ち上がった日阪の左肩に、観客だったらしい男の拳が突き立っていた。
「ぐ……うっ」
 日阪は右腕で男の拳を掴み、無理矢理引き剥がした上でその男を投げ飛ばした。
 観客に包囲されている。
「――ったく!」
 日阪が、珍しく苛立ちの叫びを上げた。私に手招き。立ち上がり、彼の背中を追った。
「どこぞのテレビゲームも目じゃない数じゃないのかよ、コレ!?」
 彼が悪態をつくのも滅多にないが、そうは言っていられない。数えたくもない数の人間に包囲されているこの状況、確かに千人も吹き飛ばす体力の浪費なんてしていられない。
 二千以上の眼球が、私を舐め回すように向けた視線を知覚した。
「逃げ切れるの!?」
 想定外だった。いくらネイムドといっても、ここまで見境なくやってくるとは思ってなかったのがひとつ。もうひとつは、闇討ちでも不意打ちでもなく、真正面から『名称無し』――一般人を使って攻撃してくるなんてのは、私の中にはない回答だった。
「やるしかないです」
 日阪が端的に切って捨てる。
 走り出す。
 まずはこの包囲を突破するなりなんなりして、対処する方法を考えるだけの時間を確保しなければならない。スピーカーを見ても、人影はもういない。間違いなくあれが件のネイムドだ。
 考えろ。
 ノイズはおそらくあのネイムドの仕業だ。幸い私たちに効かなかったとはいえ、あのノイズを使って人間の意識に介入している。
 日阪が先陣を切って包囲網に挑んだ。元観客の男が数人飛び掛ってくるものの、辛うじてそれを弾き飛ばす。現職暴徒の女性が彼に正面から襲い掛かる。目に自意識が見当たらない。瞳孔がやや開いた状態で、右腕を振り下ろした。日阪は鋭い踏み込みからの左正拳で迎撃。右腕が彼の体に到達する直前でそいつをまっすぐに吹き飛ばした。
 ボウリングのような反応を起こして、吹き飛んだ女性が何人かを道連れにして倒れる。その間隙をついて、日阪が前方に見えた出口に猛然と走りこむ。迷いのない全力疾走で捕まえようとする奴を振り払い、真正面から来る敵は迎撃し吹き飛ばす。私もその後に続いて、手を伸ばしてきた奴を後ろに無理矢理引き出し、後続を少しでも断ち切る。
 肉を打つ音。真後ろで、私に投げ出された観客の誰かが吹き飛ばされたらしい。
 日阪がゲートを蹴り開ける。飛び込むように私も出口の扉をくぐり、日阪がすぐさまドアを勢いよく蹴り閉めた。顔面を打ったのか、数人が向こう側で倒れる音が聞こえた。
 一呼吸を置こうとした日阪に、今度は出た先のドアで待ってましたと言わんばかりに警備員が襲い掛かる。――ここもか! 動けなかった日阪の代わりに、私が前に出て全体重を乗せた肘で応戦。鳩尾に直撃させた一撃は、鍛えた大人でも意識を断ち切るには十分だったようだ。
 私も日阪も、息が上がっていた。
「……なんですか、アレ」
 途切れ途切れの深呼吸で無理矢理呼吸を整えつつ、日阪がこぼす。
「件のネイムドよ、きっと。人間を操作するタイプの能力を持った敵」
「……やるしか、ないって、ことですか」
 念を押すように、彼が言葉を区切る。
 私も目を一度閉じた。
「とりあえず、目星はついているけど、この状況をひっくり返さないと」
 日阪が大きくため息をつき、うつむいた。
「――『名称』、使うしかないですよね」
「残念だけど、そうね」
 日阪が、目に指を当てた。
 ダークブラウンのカラーコンタクトレンズが外され、彼はそれを地面に捨てて踏み砕いた。
 イミテーションに隠されていたのは、まるでルビーみたいに、燃えるように紅い、虹彩。
 深呼吸をひとつ。
「先輩は、まだ起動しなくていいです。先輩はネイムドを相手にすることを考えて」
 あの人影の姿を思い浮かべる。
 アレは敵だ。
 私の親友から、彼女が心待ちにしていた享楽を剥ぎ取ったことが許せない。
 日阪が、厳かに、呪いのように口を開いた。

「――世界の記録より(include tormentlives)僕の記録を呼び戻す(class S.HISAKA)

 それは、ネイムドとして、『世界』から特別な名前を与えられた人間として、その名前――『名称』から異能を引き出す呪文だ。
 私たちを変質させてしまった『名称』。
 一般人はその瞬間に、言わば「逸般人」となる。
 それは身体的な頑健さと強化にとどまらない。
 与えられるのは、特異な現象を起こすための、一種の超能力。

対象『日阪暁嗣』のアクセス制限を解除(self_admission = true)

 日阪の紅石色の瞳が、凛、と見開かれる。
 彼の『名称』は、実在するプログラミング言語の名を取って、

その『名称』を有効化(my name = "Ruby")編集者権限付与(attr_accessor: S.HISAKA)

 《ルビー》、と言う。


  †


 日阪の目が、紅く禍々しくドアを睨む。
 内側から観客がドアに一斉に体当たり。ドアが内側から吹き飛んだが、彼我の距離は約五メートル。私たちネイムドにとっては大した間合いでもないが、普通の人間だったはずの彼ら彼女らが、それも大して武道の心得のない人間ならなおさら、この一瞬で間合いを詰めることは出来ない!
 さらに、意志のない表情をした人形のような人間の群れが、我先に殴りかかろうと足を引っ張り合っている。いや、足を引っ張っているという自覚もないだろう。それなら、アドバンテージは私たちにある。
「――オブジェクト番号AFにて、剣・定型一番を生成(object(AF) = generate(sword,preset=1))
 日阪の、《ルビー》の能力は、その名前の基となったプログラミングと関連がある。『世界』に対してちょっとしたプログラミング言語で干渉して、現実世界で物体を作り出すことや、起きたことの解析を行うことを得意とする能力になっている。壁のような大きいものは作り出しにくいらしいが、単純構造の剣や盾程度なら一瞬で生成できる。
 日阪の右手が左腰に当てられ、あたかも剣を引き抜くように丸腰の身で腕を動かす。
 腰から右手にかけ、唐突に柄のようなものが現れる。それを勢いよく正眼に構えると、おとぎ話の水晶のように透き通る刀身が一瞬で――それこそ生えるように出現した。
 装飾はあまりないが、柄に黒い飾りがついている程度。
 刃渡りは約五十センチといったところか。肘から指先までと同じような長さの両刃剣を、日阪は手の内で鋭く回転させる。
番号AFについて、追加効果を『昏倒』に設定(object(AF).add_effect = knockdown)!」
 暴徒と化した観客が日阪に飛び掛かる。
 バックステップ。
 左足で着地した日阪が、間髪入れずに右の震脚。勢いをつけて剣を一閃する。
 テレビゲームで言うなら、衝撃波のような表現。
 波動としか言いようのない圧力に撃墜された暴徒が、その場に墜落した。呼吸はあるが、意識はない。日阪の剣に付加された『属性』がそうさせる。日阪が一歩下がる。私も二歩下がり、そして次の暴徒の波が襲い掛かる。吹き飛ばされた扉の先から次から次へと雪崩れ込んで来た。増えた数も、日阪にとってはまだ問題がないらしい。数人ずつ飛び掛かってくる観客を、一振りで確実に落としていく。
 じりじりと後退を余儀なくされる。
「……番号AF、長さを二倍に補正(object(AF).length *= 2)
 刀身が、伸びる。
 腕ほどの長さになった剣を両手で構え直し、日阪が吼える。
 襲い掛かる暴徒を、刀身そのもので切り払う。
 刀身が、彼ら彼女らを透過した。そのまま撃墜数を増やし、返し刀で放つ一撃で、第二波予定の軍団を潰す。
 無言で、日阪が剣を正眼に構えた。
 無音。
 彼らからは自分の意志を感じない。おそらく、あの音の主に操られているか何かなのだろう。数の暴力で押し切ったのかもしれないが、あの扉を蹴破ったところから見て、人体のリミッターを外されている可能性は無きにしも非ず。鍵つきの鉄製扉だ。常人が蹴倒せるものではない。
 日阪のスコアは百人弱。それでも、大勢に包囲されつつある。
 日阪の一閃で再び数人が昏倒する。それを続けても、きりがない!
《――――――――――》
 また何か、スピーカーからノイズが聞こえる。
 私も、覚悟を決めよう。
《―――(Συαασμψλφη)―――》
 あのノイズを聞いて、戦力外通告を下したはずの被撃墜者が、芋虫が這いずるようにもぞもぞと動き出す。スピーカーを壊しておくべきだったろうか。いや、そんな時間があったはずもない。
 このままでは、チェックメイトをかけられる。
 いくらネイムドの私たちと言えど、こんな大規模な物量作戦まで二人で対処しきるのは無理だ。日阪も、これ以上の効率で撃墜マークを増やすことは出来ないようだし、今までかばわれてきた私が前に出るしかない。
 目を閉じる。
 そして見開いた。
 包囲の一番薄い方角――ステージ入口への角度から右に八十度を向いて、地面に右手をつく。
(食らえっ)
 私の、『名称』。
 《トラッシュメイカー》を、起動する。
 右手の指先から、侵食。
「日阪!」
 敬称をつけることもなく、短く叫ぶ。それだけで彼は理解してくれたようだった。
 私を狙った観客数人をなぎ払い、さらに牽制を兼ねて飛び道具の衝撃波を一発。
 アスファルトの地面そのものを、一直線に彫り刻む。
 向こうにしてみれば、足元に落とし穴が突然出現したようなものだ。数十人が折り重なるようにして浅い――それでも二メートルは掘った堀の中に落下する。立ち上がると同時に、強く地面を蹴ってその穴を飛び越えた。日阪がそれに続き、私の後ろを守るように着地する。
 正面を見る。
 そこに。
 彼女が。
 待っていた。
「久住先輩、新庭先輩が……!」
 見れば分かる。
 日阪の声もほとんど頭で咀嚼しなかった。
 頭の中が真っ白か、真っ黒か、分からない色で染まる。
「せんぱ……!」
 日阪を残して、私は一咲の姿をした影に走り寄る。
「かず――」
 瞬間、断絶。
 一咲の腕に、ざらついた金属の紐――鎖。
 側頭部に衝撃。
 彼女の腕がしなるように動く。
 凶悪な衝撃の残響に膝をつく。
 一咲の腕が振り上げられる。
 見事な指揮者のように洗練された動き。
 その腕を見上げたときには、鎖が振り下ろされている。
 頭頂部から後頭部にかけて、重い衝撃。
 今度は、叩き伏せられた。
 彼女が無表情に歩み寄ってくる。
「か……さ――どう……し……」
 自分の声さえ不明瞭だ。
 一咲の右手が、白い指が私の首を掴む。持ち上げられ起こされた私の唇が何かで塞がれたところで、私の視界は断絶した。