「はぁ……はあ……ッ」
 路地裏からスムーズに抜け出そうとしたが、足がもつれてうまくいかない。頭が痛い。何だこれは。頭の中は妙にクリアだがそれ以上に考えが回らない。頭痛がひどい。まるで凶悪な難度の試験問題をぶっ通しで解かされ続けた、それ以上の疲労がある。
 血の臭いがする路地裏を転がるように脱出し、入り口を振り返った。
 少年が四人ほど転がっているのが、壁に遮られていても分かってしまう。右手に生々しい感覚。強く握りこまれた拳を無理矢理解いた。普段俺が使わないような量の力が籠められていたせいか、開いた手はがたがたと震えた。
 ……生まれて、初めて、本気で、他人を殴った。
 いや、待て。
 あんな大男を吹き飛ばせるような一撃を俺が出せるはずがないだろう。あの場所で起きたことをきっちり認識できていないのはともかく、拳で殴るのは素人がやると危険だというのは父さんが言っていた。ケンカドシロウトの俺の右手は、力の入れすぎでガタブル言ってはいるが極めて健康だ。つまり俺がやったとは思えない。
 じゃあ、あれをやったのは誰だ?
 あの場所には俺しか他にいなかったんだから、俺がやったに違いないのに。……俺がやったという自信がないなんて、奇妙滑稽極まりない話だが。
 ――なんだ、認められないのか?
「……誰だ」
 どこからともなく聞こえた声に、俺は思わず問い返す。
 ――いまさら何を言ってるんだ。
   オレとオマエは似た者同士じゃないか!
「誰だ……どこにいる!?」
 夏とはいえ、路地裏を抜けてすぐということを差し引いても辺りはもう暗い。それでも叫ばずにはいられなかった。
 過程が説明されない気持ち悪い理由を述べる声がまるで俺と同じだということに吐き気がする。それ以上に、どこにいるかすら分からない相手が不気味すぎて大声を上げた。
 オーケー。あえて冷静に考えよう。
 フィクションでもそうそう見ない、ストーカーとか言うヤツか? ……俺みたいな奴を尾行して満足する男は相当一般的じゃない、軸が折れたか平行移動したかしたトンデモだろう。よって除外。
 次、実は俺の携帯電話が拡声モードで通話中になっているという、節約とは程遠い発想に基づく可能性。ポケットに入った携帯電話が無事だったのにも驚いたが、当然ながら、無念にも俺の携帯電話は無機質な初期設定の待受画面を表示していた。
 他に……
 すぐには思いつかない。
 つまり、だ。
 殴られすぎて俺の頭がおかしくなったと。
 実に残念だが、ぱっと思いついた中では一番まともな結論だ。
 ――オマエ、案外といい性格してるのな。
 それほどでもない、と言い返しそうになったがやめた。どこにいるか分からない相手に返事をするのは電話とチャット、付け加えるなら掲示板での応酬ぐらいで十分だ。
 親を心配させてはいけないと自分を納得させて、このストーカーもどきは放って帰ろう。
 とした。
 ――おいおい、待てよオマエ。
   これから仲良くやってく身なんだし。
 お前と仲良くするとは言った覚えもないしするつもりもない。
 無視して右足を上げようとして、
 ――『止まれ(ωαιτ)
 その言葉を認識した途端、体がピクリとも動かなくなった。
 ……まさか。
 うっすらと脳裏に焼きついた路地裏の男たちは、コイツが?
 おぼろげに覚えている断片では、確かに唐突過ぎる仲間割れで――
 ――夢だと、思いたいか?
   それはそうだろう!
   オレもそんな気分さ。夢にまで見た憧れのセカイがこん
なにクソッタレだったなんてなァ!
 事ここに至って、いきなり喚く声の元に、ようやく俺は気がついた。
 コイツは俺の内側から声をかけているのだ。
 言い返したくても、問い返したくても、呼吸と直立以外のことがままならないのがもどかしい。
 ――オマエも満たされてないだろう!?
   このセカイには「名は体を表す」なんて言い回しがあるってのはオマエから知ったが、オレたちはその逆さ。
   性質は名称を引き寄せる。
   オマエが叫んだから、オレが引き寄せられたんだよ!
 ……意味が分からない。
 これは夢なのか?
 それとも現実か?
 コイツの言う「セカイ」は、俺の生きているこの世界とは指すものが違うということだけ、うっすらと読み取った。
 ――理解が早いのはいいことだよな。オレも助かるよ、有本秋晴。
(「名は体を表す」なんて言い回しがあるのはオマエから知った)
 俺の記憶が、コイツに読まれている?
 俺の名前をよんだことに、一瞬何も感じなかったのが恐ろしい。
「お前は……誰だ?」
 ようやく、声の自由を取り戻した。
 そう思った。
 ――セカイにすら愛されないモノに、名前はつかないよ、有本秋晴。
   だからオレに名前なんてない。だから、こうするしかなかったんだ!
 強烈なめまい。
 途端。
     視界が、
   混沌とする。
「クク……ハハハ! 何、安心しろよ有本秋晴。悪いようにはしないとヤクソクする」
 やはりこのセカイの固体は脆い。一発『言葉』をぶつけてやるだけで、あっさりと意識を明け渡してくれるなんて!
 ――何……だって?
「オマエも見てただろう? 実感しただろう? オレの生まれたセカイで手に入れたチカラだよ。このセカイのイキモノにはよく効くんだな」
 ――『言葉』……で、人を操るっていうのか?
「その通り! やはり察しのいい奴はキライじゃない。オレの持って生まれた思考言語でモノの行動に割り込むのさ。結果オマエが言う『操る』って状態になるだけだけどな」
 この思考言語こそ、オレの存在意義だ。
 これがなければオレですらない。
 でもオレには名前がない。
「オレの知識は基本的にオマエから読み取った記憶をパクって使ってるからなァ……。そうだな、そろそろオレにも名前がついていい頃だよな」
 ――何を言ってるんだ?
 秋晴が不思議がるのも無理はない。何せ、オレは相手に理解できるような順序立てで話すなんて事はしたことがない。だから勝手に理解すればいいし、理解できなくても仕方ない。
 秋晴の記憶から、使えそうな言葉を掘り出してみる。
 コイツの中に入ったときに、オレが使ってきたコトバは思考言語の名前を与えられた。それなら、そこに関連した言葉を繋ぎ合わせればまともに命銘ができるって寸法だ。
 ハーメルン。……ドイツ市街。
 一二八四年六月二六日。……子供の失踪。
 ヴェーザー川。……ネズミ屠殺場。
 笛を吹いて、ネズミを連れて行く。
 笛を吹いて、子供たちを連れて消える。
 オレはどうだ?
 思考言語にて、誰にも理解できない言語で、他人に割り込む。
「……《笛吹き》かな」
 ――何のことだよ?
「名前だよ、名前。オレには名前がないって言ったろう?」
 オレは向こうのセカイでは爪弾きを食らってこっちに来たのだ。名前などあるはずがなかった。
「だから、なによりもまず、オレは名前がほしいのさ」
 ――そういう考え方も、あるよな。
「それは物分かりのよさか? それとも思考停止か?」
 ――生まれたときから名前を持ってた俺には、お前の悩みなんて分かんないってことだよ。この世界に名前の無いものなんてほとんどないんだ。だから名前がないってのは、一番新しいってことになる。
「……そうなのか?」
 秋晴の言葉に、オレは初めて聞き返した。
 ――名前がないって言うことは、どういうことか知らないんだな。
   名前がないって言うことは、それが新発見だったってことなんだよ。それでも人間は考えて、例えばIUPAC命名法みたいな規則を作っておいて、『名前がないからその物の名前を呼べません』なんてマヌケな時期ができるだけ短いようにしてるし、完全に新しいモノだったら発見者がその名前をつけるのさ。だから一般に出回る頃には、名前がついてることになってるんだよ。
 ……そうなのか。こっちでの名前はそんな扱いなのか。
「じゃあ、オレは新種ってワケか。オレみたいなヤツを見たことってないの?」
 ――外見はただの多重人格だろうし、それも微妙だろう。そもそもそんな人を瞬時に操ることができる本当の魔法の言葉を持ってる人間なんて、今までそうそういたと思えないな。思いたくもないけどさ。
「失礼な。オレのものには種も仕掛けもあるぞ」
 ――理解できない種仕掛けはないのと同じだ。
「……それもそう……なのか?」
 秋晴の言い分に引き下がる。自身に関すること以外については、悔しいが秋晴のほうが圧倒的に詳しい。生きているという実感がオレにはないけれど、このセカイでオレの何万倍も長く生きている秋晴の人生経験というやつがものを言っているんだろう。
 ――とりあえず、俺は俺で親を心配させたくないし、帰りたいんだけど……《笛吹き》、お前はどうしたいんだ?
「……《笛吹き》? 本当にその名前で呼ぶのかよ?」
 ――お前が俺の記憶から引きずり出したんだろ。だったら半分は、俺のつけた名前ってことでいいじゃんか。
 記憶を読んだのがバレていたらしい。
「……そっか。やっぱりオマエは物分かりがよくて助かるよ、秋晴」
 ――それで、お前はどうしたいんだ? 俺が自分から体のコントロールを取り返す方法はなさそうなんだが。
「……ま、オマエの帰りたい所に行ってみるか。道案内できるよな?」
 ――何が何でも俺の体を返す気はないのか?
 うるさいな。そんなに心配なのか。
 オレは思わず笑った。
「ちょっとは、地面を踏む感触なんてのを楽しませてもらってもいいだろ?」
 頭の中にいる別の意識が深々と溜息をつく感触に、オレはまたくすりと笑った。


 ―――


 ユメを見た。
 俺がユメというものを知っているわけがないから、この言葉は秋晴の記憶から引っ張ってきただけではあるけれど、あながち間違っていないとは思う。秋晴によると夢というのは記憶整理も兼ねるらしいとか、願い事だとかで、どうやら秋晴が眠りに就いてガードがさらに緩くなったところに記憶を全部読み漁るなんてことをやらかしたから、きっと引きずられたんだろう。
 ついでだし、このユメをちょっと思い返してみる。
 有本秋晴。
 十六年前(という単位らしい)に生まれる。
 理解の早いヤツ。父母ともにいい大学を出て医者やってれば、その息子も頭がいいはず――というのはこのセカイの一般認識らしい。俺のセカイに父親母親なんて意識はないから、どうにもそのあたりがつかみにくい。
 中毒まではつかないインターネット好き。電子機器に強いらしい。どんなものか、明日にでも見せてもらおうかな。
 家族間。
 冷たい。
 幼い頃から親が忙しすぎた。
 かかわってやれない。
 買い与えられたコンピュータ。電子機器。
 仕方ないから秋晴がそれにのめりこむ。
「家族」なのにずっとひとり。
 愛されていない?
 愛されない。
 弾かれる。
 弾き出される。
 黙殺される。
 殺されてしまう。
 取り憑いた――世間一般ではこのシチュエーションをこう言うらしい――とは言え、オレの苦しみは秋晴のおかげで何とか逃れた。
 なら、秋晴に同じ思いをさせるものか。
 オレにできることで、秋晴を守ろう。
 そのためには――



   ‡



 『名は体を表す』という言葉がある。
 名前はそのものの本質をよく表している、という意味だ。
 例えば、「祐」という名前の人が、人間であれば即死確定の交通事故に、間一髪巻き込まれなかったという事例。「祐」という漢字には「神様が救いの手を差し伸べる」いう意味がある。その人は、まさに「神様が手を差し伸べたが故に」事故に間一髪巻き込まれなかった。つまり、神様が救いの手を差し伸べる人間だったのである。
 類友だとか、火のないところに煙は立たないだとか、そういうレベル。偶然ではなく、必然として起こる奇跡。
 人の拙い命名行為が、運命に干渉するほどの結果をもたらすなら。
『世界』だからこそ、より強烈な干渉をするのはたやすい。
『世界』は私たちに、親が授けてくれたものとは別に《名称》を与える。与えてくれた。人間に比べれば神にも等しい『世界』――単純に、神様だとか天啓だとか言い換えられるのかもしれない――が私たちに貼り付けたラベルの場所は、親がくれた文字列の真上。ヒトの想いを籠めた命名行為を、顔がない何かが命銘行為で貼り潰す。
 代わりに私たち――《名称持ち》が手に入れたものは、世界の主役になれるだけの力と、人の想いを否定する非人間的な力。
 世界の記録に書かれた、私たちの新しい《名称》。私たちは、その《名称》にちなんだ異能を与えられる。
 例えばの話。『ストレージ』という《名称》だったら、何かを保管するチカラを貰える。『ゼウス』であれば、ギリシア神話の主神のように雷を操る力だ。あるいは、ひたすら女をたらしこむ才能だろうか?
 連想しやすい命銘。『世界』は、私たちの魂に気まぐれでそんな銘を彫り込んでくれる。
 誰も必要だとは言わないのに、顔のない姿で良かれと思い。
 神様の余計なお世話。反吐が出る。
 だけど私たちは、その舞台の上で踊り続けないと生きていけない。
 止めるのは簡単だ。
 だけど、私たちは生きていたい。
 どんなに、傷ついて疲れても、私は、仲間と共にこの青春を謳歌したい――。



    †



「はぁ……」
 昼休み、屋上にて。私は大きくため息をついた。
 一咲は休みだ。表向きは風邪をこじらせたことになっているけれど、たぶん嘘だ。きっと前泊どころか前々泊ぐらいの勢いで順番取りに行ったのだ。母子揃ってPLOマニア、さらに父親が単身赴任中となれば、これはもう親子揃っての策謀だ。子も子なら親も親。いくらなんでも学校を休ませなくてもいいのに……。
 胸の高さほどはあるコンクリのフェンスに肘をつき、雲が散らばる夏らしい青い空を見上げたりなんてしてみる。授業の予習をわざわざ学校でやる必要はないし、宿題なんてやろうものなら周りが私を見る目が間違いなく痛々しくなることが予想できて嫌だ。図書館に行ってまで読みたい本ややりたいことがあるわけでもない。校庭は男子が暑い中やたら暑苦しい怒号を上げながらサッカーや野球に興じているし、あの熱気についていけそうにない。教室で談笑している女子の話題にはついていけない。自然、私は大抵一咲が振ってくる話題に応答するか、眠って過ごす位しか昼休みを消化する方法を取らなくなっていた。今日は一咲がいないし、眠くもないので屋上で空でも見て暇を解消しようという寸法である。
 ……後ろにいる、ジャージ姿の頼れる後輩がいなければ、そうなってたはずなんだけどなぁ。
 不可抗力です、と目で訴えているらしい日阪を無視し、ポケットから厚紙を取り出す。昨日一咲に押し付けられたライブのチケットだ。
 別に週末が忙しいなんてことはないので、せっかくの一咲からのお誘いだし行こうとは思っている。まともに正面からやればその手のイベントに理解の乏しい両親を説得すると言う面倒な手順を踏まないといけないが、一咲と遊びに行くと言えば反対はするまい。よってノープロブレム。
 後ろの後輩はその手の趣味があるかはともかく、来るなら来るで勝手に動くだろう。私が誘うまでもない。
 よって、障害は「当日しっかりとその時間に起きることができるか」という一点に絞られた。これもいくら寝覚めの悪い私でも目覚まし時計がいくつもあれば問題はない……はずだ。
 よし。週末の予定は組み終わった。
「……それで、キミはなんでそんなジャージ姿で校内をほっつき歩いてるのかしら」
 振り返り空から日阪に視線を落として、疑問だった日阪の服装について、それとなく聞いてみる。
「仕方ないじゃないですか。横暴な生徒会の連中に狙われたんです。遅刻したら強制で学校指定じゃなくて生徒会指定のこの色のジャージですよ? 先輩たちが総会で通しちゃったんじゃないですか」
 まくし立てる日阪の発言は、冗談じみているようで事実である。
 私達のひとつ上の体育会系な先輩たちが、遅刻者引き締めの案として提示したこのギャグじみた案が生徒総会で見事通ってしまった。教師も教師で職員会議で止めなかったようで、結果倉潮高校には「朝遅刻した人間は生徒会指定のジャージを着て一日過ごしてもらう」とかいう特に夏場には罰ゲームどころではない羞恥プレイが、生徒会の手で無慈悲にも毎日のように狙われている。デザインこそ同じものの色がライトブルーと、授業で使うビリジアンなジャージとは違うため、徹底的に浮いてしまう。これに懲りて二度と遅刻なんてするんじゃねぇぞ、ということらしい。
「……そんなのもあったわね」
 あまりに馬鹿馬鹿しすぎて失念していた。
「それで、最初の仕方ないってのはどういうことかしら?」
 日阪がうつむき、大きくため息をついた。
 そしてもう一度私を見たとき、私はその真剣さに凍りついた。
「まあ寝坊した僕も悪いんですが――繁華街のラブホ街があるじゃないですか。あの裏通りでちょっと四人ほどノックダウンされたまま動けなかったみたいで、救急車の手配と発見時の状況説明をしてる間に門限過ぎました。事情があったのに生徒会に付け狙われて、今はこのザマってワケです」
 それだけでは、目が真剣になる理由にならない。
「それで……状況がおかしかったんですよ」
 聞いたら、また四月五月のような事件になる気がした。
「先輩、不良グループ四人がわざわざ路地裏で同士討ちする理由って、あると思います?」
「……リーダーの座を狙った下克上とか?」
 私にはそれしか思いつかない。
「あるならそれか、粛清でしょうね。だけど全員バラバラの位置に吹き飛ばされてたなら、それはないでしょう。全員呻いてましたし」
 情報の後出しはずるいと思う。
「……それに普通の人間が殴ったにしちゃ、強烈過ぎるダメージが入ってたみたいなんで。ちょっと《ルビー》起動して調べちゃいました」
 日阪が《ルビー》を起動した。
 その言葉は、確かに私にとって重い一言だった。
 ガチャリ、と屋上の扉が開く音がする。
 誰かが入ってくる。
 構わず、日阪は続けた。
「この街のどこかに、新しいネイムドが存在するみたいです」
 その言葉で、私の脳から日阪の声以外の音声が全て消えた。
「四人にコードスキャンかけてみたところ、緑色のダウンジャケット着た空気の読めないリーダー格以外の三人から、同一の命令文を検出しました」
 緑色のダウンジャケット。夏場にあんな格好をしていたのは――そういえば、昨日すれ違ったっけ。あの目つきは印象的だったけど、さすがに不良グループのリーダーをやってたとは思わなかった。
「命令文は《ルビー》の文法とは違うタイプのもので解読は出来ませんでした」
 日阪の発言が機械的になっていく。
 虹彩が、紅く染まる。
「ネイムドの暴走、愉快犯、故意犯、いろいろと考えることは出来ますが」
 自身に与えられた『名称』を全うする。
「《ルビー》としては、執行者である《トラッシュメイカー》に、この件の処理をお願いしたい」
 その『名称』。
 その言葉を聞いたとき、日阪の向こうにいた男子生徒に目が向いた。
 クラスメイトの有本秋晴……かな。
 明らかに動揺している。
 ガタン!
 屋上のドアが勢いよく閉まる。
「……僕からは以上です」
 虹彩がダークブラウンに戻った日阪が、不思議そうに後ろを見返した。
「誰かいましたか?」
「クラスメイトがね。……会話の中身を聞かれたと思うけど」
「ただのクラスメイトなら理解できるはずがないです。ネイムドでもなければ」
「……うん。有本が私に恋心でも抱いていたならともかく、それはないだろうと私も思う」
 彼と私に関わりは一切なかった。だからそういうことはないだろう。
 じゃあ、何で動揺した?
 あれが告白現場だとは思うまい。告白現場にしては、出てくるタームがどれもこれも物騒すぎる。
「不確定なことは、あんまり考えないほうがいいわよね」
 空に視線を戻して、私はつぶやく。
「まあ、先輩なら不確定だろうと確定だろうと問題なく突き抜くと思いますけどね」
 日阪が冗談めいた口調で返した。
 目が痛いほど青々とした空に、授業の予鈴が響き渡った。


   ‡


 金曜日、夜。変身は完璧。といっても有名人みたいにお忍びするわけじゃない。
 あたしは予定通り、金曜日の授業なんか最初から受けずにシルフズガーデンで場所取りのための前々泊張り込みに走った。お母さんもこのライブのチケットを(よりによってあたしに黙って!)予約してたんだから、親子揃って趣味が同じだとこういうところで微妙になるんだろうなあ。お母さんがあたしを病欠にして、あたしがお母さんの入場順番を確保する。あたしは明日優奈を回収して最前列に持っていく。これでパーフェクト。
 自分の服装をちょっと見直してみる。
 PLOTの公式白地Tシャツ。上から羽織った黒い薄手のジャケット。ダークブラウン基調のタータンチェック模様が地味か派手かも分からないプリーツスカート。合わせてみたオーバーニー。自分の好きな靴。薄めの化粧。
 ……さすがに、高校の同級生や教師がここにいるわけがない。いくらなんでも前泊を検討する子はいても、(親の命令を含めて)前々泊まで考える人はいてほしくない。あたしはオンリーワンでいいの。
 細い革バンドで左手首にはめた腕時計に目をやった。現在時刻、午後九時三十分。かすかに演奏音が聞こえてくる。中でも尖っている音は、ギタリスト御坂(みさか)雅之(まさゆき)の演奏だと思う。
 PLOは五人の音楽グループだ。
 完璧主義ギタリスト御坂雅之。
 すっごいヴォーカルの桜庭宗司。
 博学属性のベーシスト、高木俊史。
 熱血ドラマー(兼作詞)の鷲見幸福。
 作曲担当のキーボーディスト塚原明哉。
 誰も彼もハイクオリティな演奏ができるらしい。音楽のうまさはあたしには分からないからそこは措くとして、何か惹きつけられる雰囲気がある。
 最近になってメディア露出が増えたけれど、初期の頃からのファンは結構多いそうだ。メインの層は高校生前後の年代で、たぶん感傷的な歌詞や情熱的な曲想を併せ呑んで生まれた、言葉にしづらいインパクトがそのあたりの少年少女を揺さぶるんだろう。あたしもその一人だ。
 もっとも、最近のPLOのライブは自重しない本人たちがとんでもない時間トークをはさみつつ歌い続けちゃうから、春先にも熱中しすぎたファンが熱中症で倒れるなんてアクシデントがニュースになってしまった。それを差し引いてもものすごい引力があるバンドだと、あたしは考えている。
 しかし、この時間帯にリハーサル?
 周りを確認した。……誰もいない。
 目の前に、ライブ会場の広場に通じる大きな扉がある。携帯電話のディスプレイを懐中電灯代わりに見ると、とりあえず鍵はかかっていないらしい。
 ――これって、もう見てくれって言わんばかりよね。
 そっと、扉に手を当てる。
 あたしは音が鳴らないように、ゆっくりと扉を押し開けた。
 ライブステージは、世界史の資料で見た古代ローマの円形劇場のように、すり鉢の底の演場を段々畑のように観客席が囲んでいる。これは、妖精をかたどったガーデンの噴水ともども、かつて古代ローマについて研究していたらしい市長の趣味だとか。
 外とは段違いの鮮明さで音が聞こえる。あたしは滑り込むように中に入って、物陰に素早く隠れた。外ではギターの尖った音しかはっきりと聞き分けられなかったけれど、中だと迫力がぜんぜん違う。一足先に間近でPLO全員の演奏が聴けるなんて!
(ダイアグラムを破り捨てよう 決定済みの未来予想図……)
 声に出さないように、次に来る歌詞を黙唱する。
(縛らないでよ 僕らの夢を……)
「ブルーダイアグラム」。外に漏れ出ていた小さなギター音だけでも分かる。「星屑紀行」と並んで、今日のPLO人気の火付け役になった楽曲だ。
 あたしの一番好きな曲。
 シルフズガーデンのライブステージに、小さいながらも楽器の音が増える。シンセサイザー横のミキサーを塚原が操作し、全体の音量が少し上がる。
 御坂がギターソロ最後のBコードを一閃。
 バチン、と。ライトが消えた。
 ドラムスティックが叩き合わされる音。ライブの時に必ずやる合図だ。ギターソロの後、もう一度イントロに近い演奏を挟んでBメロに戻る、PLOの中ではちょっと珍しい曲構成。
 鷲見のフィルイン。
 次のオーバードライブギターは塚原の演奏だっけ。
 御坂が合流。C、G、Am、……最後にB。
 高田の指が絶え間なく動いているのが暗闇でも容易に想像できる。
 ――青く焼きこまれた街の憧憬
   決まりきったカタチ壊したくなる
 桜庭の声が加わった。疾走感あふれる演奏と哀傷に満ちた歌声というのは、案外と合うものなんだなあとつくづく思わされる。
 やっぱり、この曲が好きだ。
 ほんの少しのブリッジパッセージ。
 強烈なBのコード。
 フィルイン。
 直後、
 ――ダイヤグラムを破り捨てよう
   決定済みの未来予想図
   縛らないでよ 僕らの夢を……
 最強の攻撃力を持つ歌詞がフィールドに炸裂した。
 感動のあまり泣きそう。
 サビもBのコードが中心になる展開だ。……あれ? 何か音が足りないような……。
 突然、後ろから肩を叩かれる。
「まったく、女の子が夜に出歩いてるんじゃないの」
「へひゃっ!?」
 驚いて振り向くと、暗くて分かりにくいものの誰かがいた。……音が足りないと思ったら、シンセサイザーがない。ということは、塚原明哉?
「近頃の女の子は大胆で困る。フライング上等ってのは嫌いじゃないけどねェ、がっつきすぎじゃないかい、キミ」
「え、あ、あ、えー、え……」
 まずいこれはまずいなんでいきなり塚原明哉に絡まれてるのよあたしそもそもなんで広場に忍び込んだのよ見つかるなんて想定の範囲外よとりあえず落ち着きなさい新庭一咲まずは深呼吸よ吸って吐いて吸って吐いて吸って吸って吐いて吸って吸って吸って
「……あー、落ち着け。深呼吸じゃなくてそりゃ過呼吸になる」
「あ、ひあっ!? ごほ、ッ」
 落ち着けるわけないでしょ! こんな状況で!
「そうだそうだ明哉。小さい頃にかくれんぼしてて突然後ろから捕まえられたときとかものすごく驚くだろ」
 別の声が入った。いつの間にか演奏が終わっている。
「全くですね。女性に後ろから突っかかるなんて一歩間違えば痴漢扱いされかねませんよね」
「……それは、今の俺たちの事を言われてもおかしくないよな、と塚原明哉は提言します」
 そういえば、上から月の光が全然差し込んでこない。
 上を見上げてみた。
「ひっ」
 真正面に人影。両斜め前に人影。視界後方に人影ふたつ。PLOの全員に囲まれた。
「さて……」
 真正面にいた桜庭があたしに手を伸ばした。
「いろいろとサプライズを仕掛けてくれるファンだね。こっちも驚いたよ。――とりあえず、我らがPLOのライブにようこそ、お嬢さん」
 あたしは凍りついた頭のまま、ただなんとなく差し出された手を両手で握り締めた。

「ああああああもう最高……!」
 自分の声が明らかにうっとりしてる。それはもう、PLOの(本人たちは極秘だったらしい)リハーサルの現場に忍び込んで、警備員に見つかる前にPLO本人に保護されて握手会にサイン会なんてもうテンション上がってきたってレベルじゃないわよ。明日槍が降ろうが核の炎に焼かれようがもう後悔なんてない。
 だって役得じゃない。ファン冥利に尽きるってやつよ。
 持ち込んでいたボストンバッグから寝袋を取り出し、代わりに貰った色紙をバインダーにはさんでしまう。家に帰ったらもう額縁に入れて永久保管ね。
 とりあえず、寝袋を広げても問題ない場所に移動しよう。さすがにPLOが泊まっているらしいホテルまでは行けない。というかそこまで持ち合わせがなくて泊まれない。
 控え室から噴水前に戻ると、あたしたちと同じことを考えたのか、前泊で順番を取ろうとしている大人が何人かいた。その人たちに色紙が見つからないようにボストンバッグのファスナーを慎重に閉める。
 ふと、シルフズガーデンの入り口を見た。
 黒い人影がふらふらとこちらに寄ってくる。
 ふらふらと近づいてきた影が見知った顔だったから、あたしは声をかけた。
「……有本、なにやってるの?」
 彼はこういうことには一切興味のなさそうな人間だと思ってたんだけどなあ。こりゃ認識を改めなければいけないね――
 そう考えたとき、彼と目が合った。
「……有本?」
 目から感情が抜け落ちている。教室で彼を追っているわけじゃないからいつもそうかは知らないけれど、こんな有本は見たことがない。
 感情が抜け落ちた目で、有本はあたしに向かって右手をかざす。
 ――――――(ωαιτ)
 何を言ったかもわからなかった。
 有本の唇が動いたと見たときには、もう全身から力が抜け切って動けない。
 へたりこんだあたしの首が何かに吸い寄せられるように上を向く。
 有本秋晴。
 いや、本当にそうなの?
 月の光を背にしていて表情はよく読み取れないけれど、不敵に笑っていることだけは肌で感じられる。
「あ――――」
 ――はじめまして(Ντμυ)
   そして(ατ)従え(οβει)


 新庭一咲の意識は、そこで途絶えた。