まぶたを切り裂きそうな角度で、一条の白い線が視界に飛び込んだ。その線で光が散乱し、私の目をわずかに灼(や)く。暑さに机でへばっていた体を両肘で無理やり支え、その線の先を見上げた。
「はいこれ。あげる」
 どうやら、線というのは何かの紙だったらしい。頭を動かし視線をずらすと、表面なのか『P.L.O.Anniversary』の文字が確認できた。厚さは一ミリもないが、作りはしっかりとしていて、文字の近くに、羽根に絡み合う五線譜と桜の花をあしらったシンボルがある。
「PLO?」
 その紙を私の眼前に突きつけてくれた親友に、寝ぼけ眼に近いだろう視線を向けた。彼女はにこやかな表情を崩さない。よっぽど上機嫌なんだろう。
「何、どこぞの偉い人がわざわざパレスチナくんだりから来てくれたりするの? ……いつになく政治熱心ね、一咲」
 私の質問が彼女には不本意なほど的外れだったらしく、彼女は少しだけ頬を膨らませた。
「違うわよ。ロックバンドだって」
 夏の気温で熱暴走し、その熱気を溜め込んだままに再起動しかけの脳でPLOという単語とロックバンドの関係を考えてみる。
 ピー・エル・オー。何かの略字には違いない。仕事のプロならPROだ。じゃあ他を当たろう。……ドイツ語のエルはRだっけ、とノイズが混じる。
 何か、あったろうか。
「……プライヴェート・ラブ・オーケストラ?」
 考えもなしに口に出して、微妙な気分になった。結構前に読んだ本に出てきたロックバンドの名前で、本の中身をあまり詳しく覚えていなかった。
「何言ってるのよ、優奈。暑さに頭でもやられた?」
 いつもながら、まったくもって、ご名答、である。一咲は具合の悪い人間の調子を見抜くのがうまい。
 うまく思考回路が動いていない。他人より体はかなり頑丈だったはずだけれど、過熱はどうしようもなかったらしい。放課後になって保健室送りではなんとも情けない。
「……やられてるみたいね。冗談かと思ったけど、ちょっと保健室行ったほうがいいよ」
「水なら持ってるから大丈夫……」
 スポーツバッグからペットボトルを取り出す。非常用に入れてあるミネラルウォーター。凍らせた上で保冷バッグに入れてあるのだから、だいぶ冷たい。放課後になれば氷も十二分に融けている。そのボトルを口元に寄せ、キャップを外して一気に傾けた。冷え冷えとする感触が喉を伝う。
 体が冷えていく。
 思考回路を冷却する。
 少し落ち着いた体で、私の目を攻撃しかけた厚紙を指で摘まんだ。
「で、この紙は何? 紙切れとは言わないけど」
「察しが悪いなあ、というか紙切れって何よ。失礼しちゃうわね」
 ふくれっつらで一咲はそう言って、
「パニック・リリック・オブセッション。今週末にここの『シルフズガーデン』でライブじゃない。忘れたとは言わせないわよ?」
 Panic Lyric Obsession? ああ、あのバンドね。恐慌叙情想像妄想とか自分で銘打ってる最近流行の。
 しっかし。
 ライブがあるとか忘れたも何も知らないんだけど。
 そのバンドの曲はラジオで聞いたことはあるし好きだけど、そんな情報なんて聞いてない。でも手の込んだホログラムまで入った紙を見ると、きっとそれは本物のチケットなんだろう。偽造やドッキリでここまで手の込んだことをするのは、せいぜい犯罪者かテレビ会社に映画会社くらいのものだ。共通点はどれもお金を稼ぐためにやっていること。
 だけど、純粋なコドモまで騙すようなトリックを、テレビ会社がドッキリで打つだろうか。
 ありえない。
 そんなことをすれば、そいつらは全員総ざらいの袋叩きだ。
 だとすると、やっぱり本物なんだろう。
「……それで、私になんでそんな貴重品を見せてくれるのよ」
「ああ、そんなこと」
 一咲がチケットらしき紙から指を離す。
「来なさい」
 彼女らしからぬ強制的な発言に一瞬耳を疑った。
「だから、来てって言ってるのよ。予約券が二枚組じゃないと取れなかったとかどれだけもったいないことしてるのよあたし。お金の無駄遣いにならないように優奈も来てってワケ」
 ……何だその、『二枚組じゃないと取れない前売り券』って。ライブに行かない私の思考では、珍事である。
「シングル用が売り切れて残ってるのがカップル用だけって何なのよ! チケット販売業者もあこぎなことやってくれるわよね……!」
 思ったことをわざわざ説明してくれる。ありがたい子だ。しかし妙な券の売り方だということは、心の引き出しにしまっておいた。
「とりあえず落ち着きなさいよ、一咲」
「ああ、もう思い出すだけでもイライラしてきたっ!」
 だから落ち着きなさいって。
「……それで、どういう中身のライブなのよ」
 彼女の耳が私の問いを鋭く捉えると、その目が、一瞬燃えたかと思うくらいに輝きを取り戻した気がした。
「よっくぞ聞いてくれました!」
 机に勢いよく手を置き、顔が一気に近づく。まるで少女誌だか少年誌だかでありそうな強烈に目がキラキラしているお顔がズームイン。思わずのけぞった。手を組んでないから余計に怖い。
「ほら、もともとPLOってここ倉潮市の出身じゃない? だからデビュー三周年と初のオリコン一位で記念ライブのために戻ってくるって。それにシルフズガーデンのあの噴水、よーく見ればPLOのロゴの一部が入ってるってのはファンとしては見逃せない情報よね! だからシルフズガーデンでやるって話なんだけど」
 シルフズガーデンは、倉潮市の目玉になる予定で建設された多目的施設群のことだ。たしか今年の頭くらいに落成記念コンサートか何かで大物歌手がライブに来ていた気がする。至るところに刻まれた羽のようなデザインが、きっと風の妖精シルフをイメージしているんだろう。……ああ、確かに、羽はPLOのロゴの一部だ。どこにでもあるような強引な解釈で、突っ込む気もなくなった。
「それがもう、最初っからライブでやる曲ほとんど全部大公開の大盤振る舞い! さっすがPLO、器が大きいわよね!」
 ……他のライブに行ったことがないから、曲の公開云々で大物と言えるかどうか分からないんですけど。それか、一咲の思い込みっていう線もあるし。
 試しに、聞いてみよう。
「……で、どの曲をやるって?」
 さらに一咲の顔が近づいてくる。暑苦しいからちょっと離れなさい、とは口が裂けても言えないだろう。
「そうそう、まず初のオリコン一位になった『誰かさんの手紙』、最近発売されたシングルの『オーディール』、初代シングルの『ブルーダイアグラム』に『ユニヴェール』は確実ね。アルバム未収録の『メルティフィア』はライブに向いてる曲だし、これもやるって話。アルバム表題の『星屑紀行』もかな?」
 延々と、曲の名前を挙げていく。
 マニアを自称するだけあって、たぶん今までPLOが発表した全曲を挙げてくれといったらきっと全部言い切ってしまうだろう。それだけの勢いがあった。
 挙げた曲数が二十を数えようかとしたところで、
「で、最後にきっとデビュー作の『ディヴィナ・コメディア』でしょ! デビュー当初から気になってたんだけど、でもどこかで聞いたような名前なのよね。独創性がない、というか、単語をつなぎ合わせただけのような、というか」
「……ダンテの『神曲』よ、それ」
 神曲として知られるダンテの名作は、本来の日本語訳であれば神聖喜劇だ。地獄や天国を渡り歩く、想像するだに恐ろしく、そして幻想的な旅のどこが喜劇なのかは、私にはさっぱり分からない。外国人と日本人、過去の人と現代人、日本古来の信仰とキリスト教の思考には、えてして隔たりがあるものだ。
「ああ、それで『永遠の淑女』だのそういう言葉が出てきてたんだ」
 しきりに首を縦に振る一咲。でもやっぱり歌詞はいいよね、と繰り返す。
 そして、煙を吹いた機械のように、かくん、と突然動きを止めた。ぶつぶつと何か呟いている。お金お金お金お金、と聞こえたような気がした。差し出されたチケットを見ても、価格はわからない。それでも千円単位なんだろう、という想像はついた。アルバイトもしない進学校の学生にとっては、それなりに痛手になる出費だ。一咲の家みたいに、お小遣いに対して厳格な家の子ならなおさらだ。
「そのせいでライブ盤が買えないの。今までせっせと貯めてきたお小遣いが一瞬でパーよ、パー。PLOは学生ファンも多いんだからそこら辺配慮してくれたっていいのに……」
 それはどこのグループだって同じだと思うけど、という言葉を辛うじて噛み殺した。
「……そうなのね。で、明後日、いつから?」
 一咲の体がマニュアル車みたいに、極端に段階的に動作速度上限を引き上げる。
 気づいた時には、私の手は彼女にがっちりと両手で掴まれていた。キラキラとした眼が私の目を捉える。のけぞりたくても体がロックされてしまった。心理的なサイドブレーキ。いくら身体能力が高くても、硬直してしまえばそれまでだ。人間というハードウェアの限界が妬ましい。
「うん、じゃあ明日の夜から並んで順番取っとこうか」
「……は?」
「ほら、だから明日の夜から並んで順番取っとくのよ」
「……ごめん聞こえなかったからもう一度言って」
「ええ、それじゃ明日の夜に並んで順番取っちゃうの」
「……この気狂い……。答えになってない」
「あら、それじゃ一緒に明日の夜行くのよね、優奈?」
「行かないわよ」
「えー、私たちってPLOで結ばれた運命の相手よね」
「気持ち悪いこと言わないで」
「つれないこと言わないで、将来を誓い合った仲よね」
「誤解を招く発言はやめてもらえないかしら」
「……」
「……」
 短い沈黙の後、一咲の顔がさらに近付いた。
「ちょ、ちょっと近いわよ一咲、私はそういうことに興味は……」
 どうやら夏の陽気は私の脳を本当に過熱させたらしい。冷静な自分が狼狽する自分を見下している感覚がある。一咲だってそんなに発展家ではないのに、茹だった私の頭はどういう風に回路をつなぎかえたのだろう。顔が火照っているのか恥ずかしいのか、赤くなっているのが自分でも想像できた。
「……んもう、まったく優奈ってば耐性ないわよね」
 そういう言い方はあまり好きじゃない。一咲の指と唇が離れて、ようやく私の体の硬直が解けた。……さすがに、この場所で一咲も私に手を出すようなことはしないらしい。
「だってもう二度とないようなライブなのよ? 明日から張り込んで一番前の席で見たいに決まってるじゃないの。それがファン魂なの。プロット(PLOT)の他の連中がどんなに急いでも前日張り込みには勝てないの。それなのにこの娘はノリが悪いのね。出るとこは出てて人間としてうらやましい出で立ちなのに。堅物じゃあいつまでたってもオトコとかできないのよ可哀想にふふふふふ……」
 自虐とも取れそうな暗さで、うつむき加減に、マシンガンみたいなラップのように一咲が呟く。
 ……そういう言われ方は、もっと好きじゃない。
 そもそも、一咲にだって彼氏はいないくせに。いてもどうということはないけどさ。
「……聞こえてるわよ、周りにも。十二分に」
「いいじゃない、別に。勘違いされたところで私のPLOファンっぷりがより浮き立つだけだし」
 この子のこういうところは、なんとかならないものだろうか。だから周りの人間が進んで寄り付かないのよ。私も、人のことを言えたものではないけど。
 しかし、もう、疲れた。家に帰って休むのが一番効率のいい頭の冷やし方だ。
 引き出しの中に入っていた数学の教科書を学生鞄に放り込み、私は席を立った。
「あら、もう帰るんだ優奈」
 話し足りないのか、一咲は残念そうに目を伏せる。
「家に帰って頭冷やさないとちょっと倒れそうな感じ。それじゃ、また明日ね」
「それじゃ仕方ないわね。明日の夜にきちんと泊まり込みで場所確保できるように準備しとくのよ?」
 前々日張り込みの人っているのかな、とふと思った。今日は木曜日で、ライブは土曜日。週末になる明日はともかく、今日から会場に張り付いていられる人はそうそういないだろう。
「……まったく、これだから一咲は」
 唇がほころぶのを抑えられない。私は照れ笑いみたいな表情をしているんだろう。私と違って、本気で打ち込めるものを持っている彼女が、ちょっと誇らしくて、うらやましくて、ほんの少しだけ、妬ましくも感じた。
「じゃ、また明日ね」
 手を振って、私は教室を後にした。


   ―――


 私は、どうやら夏が苦手らしい。
 疲れている体を引きずって、帰宅ラッシュでごった返す倉潮市の繁華街をすり抜ける。乾ききった夏の日差しは嫌いではないけど、人肌の熱気というのがどうにも好きになれない。中途半端でまとわりつくような温もりだ。もうちょっと極端なものが私の好み。形のないものにも白黒つけないと気が済まないのは、神経質なのだろうか。
 学校の教室は、クーラーをかけているせいで換気頻度が低い。おかげで終礼近くになると空気の荒れ具合がひどいことになるけれど、この外もなかなかにひどい。まとわりつくような暑さが私に取りすがってくる。
「……あつい」
 夏の殺意はぎらぎらと人の壁に覆われたアスファルトへと放射されている。穿つような太陽光線は、もう少し強ければ本当に人を殺せそうなほど地表付近の気温を高めている。上空は涼しい風が流れているのかなと思うと、ほんの少しだけ頭にきた。五時過ぎの日光は真昼に比べれば弱いものの、それなりの規模になった都市の例に漏れずヒートアイランド現象が支配するこの町は、ヒトが快適に生きるにはやや暑い。両手が学生鞄とスポーツバッグでふさがっていて、首筋あたりに溜まった嫌な熱気をどうすることもできない。
 その熱気を生産する繁華街は、倉潮市をふたつに割っている。
 繁華街より北側は、主に居住区や行政関係。南側は、主に商業や教育関係。もちろん学校は南北に散らばっているけれど、南側のほうが学生に親しまれているというのは確かなことだと思う。
 目指すのは、繁華街を抜けた先の倉徒川。
 ふと気を抜いた瞬間に、トン、と、誰かと肩をぶつけた。頭ひとつ分高い身長に、夏場だというのにエメラルドグリーンのダウンジャケットを羽織り、傲然と人ごみの中を流れていく。悪い、としか形容できない目つきは印象的だった。
 それでも、互いに、無視しあう。
 それがこの時間のルールとでも言わんばかり。繁華街を横断する若者なんて、私を含めてみんなそんなものだ。
 無視しあう視線。
 見飽きた「トマレ」の道路標示。
 慣れきった私のメモリーを、全部。
 捨ててしまいたい。
 トラッシュボックスの中に。
 赤光を砕き尽くし捨て去り、
 熱気を喰らい尽くし捨てて、
 見尽くした雑踏を放り込む。
 ……それが出来たら、どんなに楽か。出来ないから、私たちは人間という名前の社会のパーツになれるっていうことは、アレを覗き込んでしまったときから分かりきっているっていうのに。
「そう、だから僕たちは都合よく物事を忘れられない」
 後ろから、そう声をかけられた。
 思考を読まれた、というわけではない。ここ数ヶ月で聞き馴染んだ声だ。
「今日はちょっと遅いんですね、久住先輩」
 振り返った先に、少年が一人。
「……相変わらずだけど、人の家路に首突っ込むものじゃあないよ」
「それを言うなら、恋路じゃないでしょうかねえ」
 後輩はくつくつと笑った。身長体重体形ともに平均的、女子にしては背がやや高い私と同じくらいの背丈の上に、不敵なのか繊細なのか判断に困る表情の首がのっかっている。
 虹彩は赤茶けた微妙な色だ。度のないダーク・ブラウンのカラーコンタクトレンズだ。彼は表向き、「虹彩の色素が薄くて光に弱いから」ということで通しているけれど、私は本当の理由を知っている。
「私はその手の冗談嫌いだってこと、分かって言ってるでしょう? 日阪暁嗣くん」
 日坂暁嗣は、わざとらしく眉を上げた。
「ま、その反応も予測済みですよっと」
 彼が私の横に並ぶ。
「……五月以降、そちらの学年で目新しいことはありましたか」
 おどけていたさっきまでのトーンとは違った、静かな声音で日阪が聞いてくる。それだけで、私も彼が何を聞きたいのかが分かってしまった。
「今のところはないよ。少なくとも、私の周りでは、だけど」
「じゃあ信用性はちょっと低いですね」
 からからと日阪は笑う。
「……友達いないってのを馬鹿にしてるわけ?」
「まさか。こっちにだってそうそういませんよ。信用できる友達なんて」
 話を合わせる程度の付き合いのある人ならそれなりにいますけどね――と彼は言ったものの、確かにクラス内の付き合いそのものが一咲以外にほとんどない私からのタレコミなんて、彼のに比べれば程度が低くたって仕方がない。
「ま、頻繁にあっても困りますし、幸いってとこでしょうか」
 目を押さえて日阪は呟いた。
「それで、新庭先輩とはうまくいってるんですか」
「……うまくいってるも何も、友達なんだから。一咲ワールドにすぐ突入しちゃうのはちょっと問題かもしれないけどね。それでPLOのライブチケット貰ったり」
 日阪は押し黙っている。
「ペアチケットでないと取れなかったとか何とか言ってたけど、実際のところどうなのかしら。どこかの小説のPLOのように、私を時の向こうにでも洗脳して連れて行こうとしてるのかな。いわゆる布教活動とか言う感じで」
「……そういう趣味がおありで? 親交があるのは彼女だけみたいですし」
 日阪の反応はずいぶんと冷め切ったものだった。冷めた、というよりは諦めたと言う感じがある。
「まさか。一咲は私の親友よ。キミもそういう勘繰りかたは止めなさい」
 この男は私を何だと思っているんだろう。
「それじゃ空気も程よく気まずくなったんで、僕はここでお暇しますね」
 そして思考回路がよく読めない。
 そう言って、日阪は何のジェスチャーもなしに、まるでそれが当然とでも背中で語っているかのように、違和感なく姿を消した。
 白い何かが、風に流れて近づいてくる。裏が白く、表は派手な色彩の印刷がされている。パチンコ屋のチラシだろうか。
 飛んでくる位置に手をかざす。
 触れて、
 戯れに、私は手を流した。
 白と派手な色を裏表にした紙のかけらが、後ろへと流れ散って行く。

      ‡

 路地を下向いて歩いていたところに、不意に腕を強く掴まれた。
 有無を言わせぬと肉体言語で表現するそいつは俺の鳩尾に膝を叩き込み、そのまま引きずる。
 路地裏に引きずり込まれて、顔を強く殴られた。俺の後頭部と壁が嫌なハーモニー。
 脳がじくじくと痛みを引きずる。
 痛くて痛くて、一瞬視界が明滅した。
 ――繁華街の路地裏。
 ――目の前に、がっしりとした体格の男が四人。
 ――年の頃は十五から十七。
「……はッ、やっぱちょろいモンですね」
 一番幼そうな顔をした少年が、一番背の高い奴に向かって言った。
 腹を蹴られる。幸い、空腹なせいで吐き出すものは何もなかった。
 俺は死ぬのか。言葉で、そう考えた。
 髪を掴まれ無理矢理顔を引き上げられる。背の高い男はクソ暑い真夏だというのに緑のダウンジャケットを着込み、いかにも悪く見せたいかのように頭を派手に飾っていた。
 ――四人。
 ――二人と二人。
 ――残されるのは弱者の二人。
 この瞬間、
 視界が、
     反転した。
「何時間張り込んで、成果はこいつ一人だけか?」
 怒鳴るような声。オレに怒鳴るな。人違いだ。
 放り投げられる。背中、頭、壁に強打。我ながら情けなく、壁に背中で寄りかかる形で崩れ落ちた。
 ひょろ長の男が俺のパーカーのポケットに手を突っ込んでいる。財布でも抜くつもりだろうか。現金は抜かれても大したことはないが、ファミレスのドリンクバー券は抜かれるとちょっと面倒だなとおかしなことを考える。
 ――12840626。
 ――消えていく子供。
 ――着飾ったつもりの笛吹き男。
「しっかし、こういう狩りは病み付きになっちまったな……。サツにバレなきゃローリスクハイリターン。いつまで経ってもやめられない、勝ち続けることが運命付けられたギャンブルみたいなもんだ」
 ――笛の音は波。
 ――情報伝達の本体。
 ――ただし暗号化された翻訳前駆体。
 頭の中をざわざわと意味のないフレーズが駆け抜けている。
 いや、
 意味がないということはない。
「麻薬はヤらないって決めてるんだが、案外と似てるのかもな」
 誰も止めない。腰巾着には止められない。逆らって次の標的になるのが怖い。その意味を言葉で理解した。
 脚を蹴られる。腹。腰。肉色サンドバッグ。気に入っているパーカーの裾が少し血で汚れた。痣が痛い。内出血もひどいかもしれない。
 でもそれ以上に、オレは興奮していた。
 痛みではない。
 頭の中を駆け巡る新しい何かが、血にまみれそうなオレの意識を燃え上がらせる。
 ――前駆言語にて伝達。
 ――通常言語を前駆言語に逆置換。
 ――暗号化された言語は笛の音に類似。
 リーダーの拳が顔面に降ってくる。
 ダウンジャケットの上からでは肉のつき具合は分かりにくい。握り締められた拳は力任せに運ばれる。大きな手が自身の握力できしんでいるかのようだ。
 ――事象はすべて言語にて表現可能。
 ――自然科学を論理的に構築する数式も言語。
 ――初期形式は違えど翻訳し同じ基準で評価可能。
 着弾予定点はオレの眉間。力任せの割にはコントロールは悪くない。
 ゆっくりと、そうとしか見えないほど、時間が引き伸ばされた。
 ――すべて言語にて表現可能であるならば。
 ――この《名前》であるという意味を通せば。
 ――すべての事象は言語で操作可能な物となる。
 ――この《名前》の意味を知り得た哀れな者なら、
「……すべて、言語と翻訳で動かすことができる――!」
 無意識に口にし、そして気付いた。
 思考言語([ハーメルン])を起動する。
 思うと同時、この体を支配し、そして体は動く。
 眉間にかざされた拳を左の掌で受ける。今まで無抵抗だったらしいオレの行動の変化に驚いたのか、ジャケット男が表情を変える。拳を引き戻そうとするよりも速く左手でそいつの手首を掴み、思い切り引いて立ち上がった。ジャケット男が壁に向かってつんのめるのを尻目に、オレは四人の中心に立つ。
 頭の中でありえない量の情報が流れている。オーバーヒートしそうだ。
 得た情報を咀嚼する暇はない。
「……二人でいいよな」
「あ? 何言ってんだお前?」

「……無事に帰れるのは二人でいいよな」

 直後。
命ず(Ιο)そいつを殴れ(Βηδ)
 リーダーでない二人を適当に選んで言った。音は言葉にはならず、普通には意味の捉えられない、笛のような音になって夜の街に溶ける。
「え、あ、あぁ!?」
 引っ張られるようにひょろ長の体が動く。本人の身体能力を超えた動きに、筋骨が悲鳴を上げたようだ。そのまま数歩の距離を一瞬で詰め、しかし腰の入らない一撃がリーダーの左肩に入る。不意打ちになったのか、両人共に体勢を崩し、リーダーの反撃にひょろ長が情けない悲鳴を上げて吹き飛んだ。
命ず(Ιο)そいつを殴れ(Βηδ)

 童顔の奴が引きつるような動きでリーダーに突進する。嫌だ違うと叫んでいるが、無視。右の一撃目は止められたが、左の二撃目は腹にクリーンヒット。よろめくジャケット男に、膝の追撃。鳩尾は外したものの、相当の痛みが走ったことだろう。童顔の叫びが大きくなる。彼の意思は無視して、四撃目。両手を高く上げて手を組み合わせ、前屈みになった目標物の背中目掛けて振り下ろす。直撃。大きく目を見開いて息を吐き出したジャケット男に、とどめの一発。顎に童顔の膝が突き刺さる――直前に、ジャケット男の腕が暴力的な動きで童顔を突き飛ばした。
「テメェ……何しやがった」
 息も切れ切れになってようやく二人を撃退したリーダーが、猛々しくオレを睨む。
 だけどその膝は震えている。
命ず(Ιο)そいつを殴れ(Βηδ)
 リーダーでない最後の一人に命令。二人ぐらいは無事に帰せると思っていたのに、叩きのめされた二人も火事場の何とやらを受けたのか痛そうに呻いている。大して特徴のない、存在感も薄い奴が泣きそうな顔でジャケット男に猛進する。
 まるでコンピュータゲームのNPCにされたみたいだ。
 自分の意志に関係なく、プログラムされた行動だけをこなす世界の部品。
 口笛を吹くように、言葉で現象を翻弄する。
 人体のリミッターを解除する。真に人体の力を解き放つためには邪魔なものだ。これさえなければ、片腕でトン単位の物すら動かせるとどこかで聞いた気がする。そんな状態で人を殴ったらどうなるんだろう、という好奇心がこのイキモノをよく知らないオレを動かす。
 右肩に、もはや常人には不可視の一撃。この体にちょっとだけなじんで動体視力がさっきより良くなったと確信できたオレ自身もほとんど見えなかった。コンクリートの壁にジャケット男が叩きつけられる。ごきり、とどこからか嫌な音がした。続けて突進した無個性男の左拳が左脇腹へ。右膝が腹部へ。吸い込まれるように直撃し、男がわずかに吐血した。そのまま、動かなくなる。
 無個性男が、俺を振り返る。
 その顔は必死で、醜く引きつっていた。
「ひっ……」
 情けない声を上げたそいつに、本能的に握った右手で全力のストレート。
 オレにも予想外じみたスピードで突き刺さった拳は、そいつの左肩に食い込み、コンクリートの壁まで吹き飛ばす。
 しばらく呆然と突きの姿勢で止まったまま、
「……なんだよコレ」
 オレは深くため息をついた。
 なんとも、肉の檻である。セカイから弾き出されて叩き込まれた先でいきなり「ドンパチ」とは、オレもとことんツイてないようだ。
 ぶわりと、目の前がぶれる。
「まだ、なじみきってるワケぁ……ねぇか」
 もっとも、再起動には一分もいらない。すぐにコイツの記憶を読み漁って、馴染んでしまえばいいのだ。
 意識が、
     逆転する。
 当人が悲鳴こそ上げないが、転がり落ちるようにこの路地裏から逃げるのを意識しながら、オレはさっき読み取った『名前』と情報を噛み砕いていった。